旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

消えゆく「国鉄形」 常に目立つことなく隠れた力持ち【6】

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 1960年代といえば高度経済成長期の真っ只中でした。
 第二次世界大戦によって、日本の経済や産業は言葉通りボロボロの状態だったのが、様々な要因が重なって好景気が続きました。戦争の空襲で国土も焼かれた日本は、世界も驚くほどの早さで復興し、しかも経済大国へと成長していきました。

 そんな中で、国鉄の貨物輸送も増加の一途を辿っていた時代でした。
 重入換用機関車として登場したDE11形は、各地の操車場で晴れの日も雨の日も、暑い日も寒い日も、昼夜を問わず文字通り「休む間もなく」、操車場へやって来た貨車たちをハンプに押し上げ、列車として組成ができた貨車たちは引っ張り出すという仕事を黙々とこなしていました。


前回までは

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 DE11形によって入換をされた貨車たちは、貨物を載せて全国へと走って行きました。まさに日本の物流を支えた、縁の下の力持ち的な存在でした。

 同じ頃、国鉄ディーゼルエンジンのさらなる改良に取り組んでいました。
 同じエンジンでも、出力が大きい方がなにかと有利です。重い貨物列車を引っ張る力も強くなり、軽い客車列車なら加速もしやすくなります。エンジンのパワーが上がることで、列車の運転効率が上がるのです。
 こうしたことを目論んで、国鉄はこの頃つくっていたほとんどのディーゼル機関車が装備していた、V形12気筒で排気量61リットルのDML61形エンジンを改良した、DML61ZB形を開発しました。この改良形エンジンは、最大出力が100PSも向上して1,350PSの出力を発揮することができます。

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新鶴見機関区の運転庁舎の運転事務所から撮影した、ハンプ上で並んで待機をするDE11形ディーゼル機関車。奥が1号機、手前が2号機で、操車場での入換専用機として開発され、その初号機は首都圏屈指で三大操車場に数えられる新鶴見に配置したことからも、国鉄がこの機関車の能力に期待をかけていたことが分かる。この当時はまだ操車場もフル稼働状態で、機関車の奥に写る本線から到着した貨車たちは、この機関車に押し上げられて行き先別に振り分けられていた。操車場の廃止、民営化、そして規模の縮小によってこのハンプは既になくなり、この地には現在は公道が通り、バスの発着場となる交通広場が設けられ、さらには高層マンションが建ちならび、この頃の面影を残すのは機関区運転庁舎とその隣にある西機待線群だけになった。(1982年8月頃 筆者撮影)

 改良形エンジンは、本線用のDD51形はもちろん、支線・入換用のDE10形に装備されます。もちろん、重入換用のDE11形にもこのエンジンが載せられ、新たに1000番代に区分されました。

 操車場で重量の嵩む貨車の入換という過酷な仕事を専業にするDE11形で、エンジンの出力が向上したことは機関車にとってはある意味幸運だったといえるでしょう。
 貨物を満載した貨車はとにかく重く、ハンプの坂を押し上げるのは重労働でした。そこへエンジンのパワーが加われば、多少なりとも楽になるはずです。

 DE11 1000番代も全国各地の操車場に隣接した機関区に配置されました。そして、操車場での入換作業はもちろんでしたが、その余裕ができたパワーから、支線での小編成の貨物列車を牽く仕事も細々ながらこなすようになります。本来は操車場での入換だけが生業だったのが、なんと強固な線路構造など一定の条件はあるものの、本選へ出て列車を牽く仕事が与えられたのです。

 一方、武蔵野線の武蔵野操車場を仕事場にしたDE11 1000番代は、ちょっと風変わりな改造を受けることになります。
 武蔵野操車場は1972年に開通した武蔵野線の吉川駅-三郷駅間につくられた大規模操車場で、開業は1974年のことでした。1974年の開業というのは、国鉄の貨物輸送の歴史から見ると最も遅いタイミングで、凋落激しい頃に「なぜ、こんな大規模投資を?」と訝る向きもありますが、そこはやはり「国鉄」なのでしょう。こうした施設を整えることで貨物輸送を回生させたいと考えたのかも知れません。

 そもそも武蔵野線は首都圏を横断する貨物列車のバイパス路線として建設されました。今でこそ「東京メガループ」なる愛称で、旅客列車がひっきりなしに走っていますが、開業当初は旅客列車よりも貨物列車の方が多く走っていました。
 その武蔵野線の中、埼玉県のもっとも千葉県よりにある吉川市三郷市の間に、武蔵野操車場がつくられたのです。ここに操車場をつくったのは、この付近に数多くあった小規模な貨車操車場を集約することが目的でした。

 武蔵野操車場はもっとも新しい操車場だったので、貨車の仕訳や入換も多くがコンピュータ制御による自動化がされた画期的な操車場でした。ハンプに押し上げられてきた貨車は、その番号をカメラが読み取って、予め入力された行き先に従い、ハンプの上で切り離されると自動的に行き先に合わせた仕訳線へと振り分けられました。

 ほかの操車場にこのような機能はありません。ハンプの上にいる操車係が貨車の番号を見て、貨車の行き先を確かめ、何番線に振り分けるのかを確かめると、切り離された貨車が丘を下っていくときに、貨車を仕分けるべき線路へ流れるように転轍機を操作していました。これをすべて人が手動でやっていたのですから、操車場がどれだけの人手と手間を掛けていたのか垣間見れるでしょう。
 貨車の仕分け作業はコンピュータによる自動化がされた武蔵野操車場。できることなら多くの作業を無人ないし最低限の職員でできれば、赤字続きの国鉄としても助かるというものです。

 そこで、この武蔵野操車場で入換作業をするために配置されたDE11形を、なんと無線操縦による自動運転をしようということで、4両の機関車が改造を受けました。

 無線操縦と聞くと、なんだかラジコンみたいに聞こえると思います。
 機関士が運転台に乗らず、地上の運転装置を操作して機関車を動かす・・・なんて、今時でいうところの「無人航空機」ならぬ「無人機関車」と思いきや、実際にはその程度のものではありませんでした。
 目指したのは、操車場に到着した貨車をハンプに押し上げる時、貨車の仕訳をするコンピュータに連動し、最適な押上速度を機関車に無線で指令して運転するというもの。貨車の仕分け作業を効率化するために、コンピュータと連動した操縦システムにしたのです。また、ハンプへの押上だけでなく、仕事を終えて所定の位置まで戻る「機回し」や、平面の仕訳線で入換作業をする時も、コンピュータによって無線で制御されて走ったり停まったりすることができるというものでした。

 そんな今時の自動運転も真っ青な優れた操縦装置が、1970年代終わり頃にこの4両のDE11形に取り付けられたのでした。

 試験の結果は良好だったそうです。
 ですが、いくら優れた技術とシステムでも、それを使うのはかの国鉄です。
 コンピュータ制御で自動化され、無線で機関車を運転されてしまっては、機関士の仕事がなくなってしまいます。そんなことになってしまっては、労働組合が黙っていませんでした。ヘタをすれば、ストだの何だとの大騒ぎです。
 せっかくの優れた装置を装備したにもかかわらず、この4両の機関車には以前と変わらず機関士が乗務していたそうです。そして、ハンプに貨車を押し上げる時だけは無線操縦で、あとは機関士が運転したり、必要に応じて非常ブレーキを扱ったりしたとか。
 もっとも、この優れた装置も、地上の操車場の自動化システムが未完のままだったそうで、宝の持ち腐れになってしまったとか。その後、本格的に使われることなく、操車場自体が廃止になってしまい日の目を見ることなく終わってしまいました。