《前回からのつづき》
箱型の車体をもった911形の前面は、前面窓のしたを境に「く」の字形をした立体感のある流線型に近いものでした。前面窓は中央部から後退した2枚窓で、特急形電車である485系などに似たものでした。高速で運転することから、運転台は高い位置に設置された「高運転台構造」とし、運転士の負担に配慮されていました。そして、前部標識灯と後部標識灯は、左右それぞれ1組ずつを設置しました。ただ、その設置方法も独特で、透明の窓の中に収められるなど、0系に通じる構造でした。
塗装は営業用車両のような白(ホワイト)地に青帯(青20号)ではなく、青色地に前面には警戒色として黄色の帯が塗られました。国鉄のディーゼル機は、黎明期にぶどう色2号に黄色帯を巻いていましたが、後に朱色と灰色の2色塗りに白帯を巻いた標準色が制定されていました。しかし、新幹線では高速で走行する営業用車両である0系と比べて最高速度が低く、遠くからも容易に識別できる塗装として、このような目立つ配色になったと考えられます。
そして、救援用として開発されたので、連結器は営業用車両と連結するための密着連結器を装備していましたが、それとは別にもう一つの役割が与えられていました。救援用としてのほかに、保守工事などをするための工事列車にも使われることを想定し、事業用貨車を牽くための自動連結器も装備していました。
新幹線911形ディーゼル機関車の形式図。全長は19,499mmとDD51形よりも長く、箱型の車体もあって、国鉄ディーゼル機の中にあって大型の車両であった。(ディーゼル機関車形式図より抜粋 出典:ディーゼル機関車1970年 日本国有鉄道)
911形は新幹線で運用するため、保安装置は在来線で使われているATSではなく、列車自動制御装置=ATCを搭載していました。これは、日本の機関車として初めてATCを装備したもので、後に青函トンネルの開業に伴って改造によって製作されたED79形が登場するまで唯一のものでした(DD13形を新幹線用に改造した912形は、ATCではなくATSを装備していた)。
国鉄のディーゼル機としては突出した走行性能を備えた911形は、先行量産機である1号機と、量産機である2号機、3号機の3両が製造されました。1号機はすでにお話したように出力1000PSのDML61S形エンジンを2基搭載していましたが、量産機である2号機と3号機は、さらに出力を向上させて1100PSのDML61Z形を2基搭載、車両出力は2000PS〜2200PSとDD51形と同等のエンジン性能を確保していました。
そして、当初の計画通りに車両故障などによって走行不能となった列車を救援するために、3両の911形は万一に備えて待機することになり、輸送障害時における「守護神」といえる存在だったと言えます。
しかし、幸いなことに、実際にはそのような活躍をすることはありませんでした。これは、東海道新幹線開業当初のようにダイヤ編成に余裕があったものの、年々増加する輸送量に対応するために列車が増発され、過密ダイヤになっていったこともあって、国鉄ディーゼル機としては最高の速度で走ることができたとしても、160km/hでは他の列車の運行を妨げる恐れが出てきたからです。
国鉄はもちろん、私鉄の一部でも万一の事故などに備えて救援車を配置している。活躍しないことが最もよいことであるが、いざという時の備えとして必要ともいえる。写真は京浜急行のデト17・18(©Kuroc622, CC0, via Wikimedia Commons)
例えば、三島駅−静岡駅間(現在は三島駅と静岡駅の間に新富士駅があるが、開業は民営化後の1988年なので、ここでは省略する)で車両故障で自力走行ができなくなった列車が出たとします。この列車の救援のために、東京で待機している911形を出動させたとすると、まずはこの列車と911形の間で運行されている列車を、可能な限り退避させなければなりません。
退避させるといっても簡単なことではなく、その施設が必要ですが、小田原駅と三島駅は新幹線の駅としては標準的ともいえる2面4線、すなわち速達列車が通過する本線のほかに、これを退避させるために設けたホームに面した着発線があります。また、新横浜駅は本線上(通過線)にもホームがありますが、2面4線という構造は他の駅と変わらないため、ここでも退避させることは可能です。しかし、熱海駅はその立地からこうした用地を確保することが困難であったため、速達型列車が高速で通過するにもかかわらず、相対式ホーム2面2線という配置になっているので、ここで退避させることは不可能です。そのため、東京駅から三島駅までの間で列車を退避させることができるのは、理論上、新横浜駅と小田原駅、そして三島駅の3本が限界なのです。
そして、後続の列車に与える影響を可能な限り抑えるために160km/hという高速で運転が可能だとしても、営業列車の最高速度である210km/hとの差は50km/hにもなり、開業当初の1−1ダイヤであればそのような運用も可能でしたが、度重なる増発によってダイヤが過密化していき、1972年には4−4ダイヤでは15分間隔、1975年になると5−5ダイヤになって12分間隔になり、もはや国鉄ディーゼル機最速の性能をもってしても、救援用としての運用は困難になったと考えられるでしょう。
このように、東海道新幹線の環境が変化したことも、911形が本来の役割を担うことが難しくなったといえるのです。こうしたことから、国鉄は911形を救援用としての運用を諦め、万一、列車が走行不能になる輸送障害が起きたときには、該当する列車の前後を走っている列車を救援列車として仕立てることで、早期に障害を取り除いて運行を再開させる方針に転換していったのです。
《次回へつづく》
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