旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

走り抜ける「昭和の鉄道」 京の都から浪速へ川沿いを走る老兵・京阪2200系電車【3】

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 1964年につくられて以来、実に50年以上もの間走り続けてきた京阪2200系電車。その顔のおでこには、これまた京阪電車の特徴の一つともいえる大きな二つの前灯があります。

 前面上部、人の顔でいえばちょうどおでこのあたりに、左右に振り分けられた二つの前灯は、大きな丸形のライトケースに前灯が収められています。

 この前灯もまた、時代が進むにつれて改良を重ねてきたのです。

 登場当初は当時としてはオーソドックスな白熱灯でした。


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 というより、1960年代前半だったので、白熱灯意外に選択肢がなかった、というのが実情といえるでしょう。白熱灯は安価で構造が簡単である一方、消費電力の割には明るさがなく、寿命も短くメンテナンスに手間がかかるデメリットも抱合していました。

 そこで、登場したのがハロゲン電球に反射板(レセプタクル)を一体化した、シールドビーム灯と呼ばれるものでした。

 シールドビーム灯は白熱灯に比べて明るく、反射板と一体型なので電球の交換も容易になり、メンテナンス性が向上しました。電球の寿命も白熱灯に比べて長くなり、コストを抑えることが可能となりました。

 2200系電車は、1970年代の昇圧・冷房化工事とともに、前灯のシールドビーム灯への変更も施されました。

 シールドビーム灯に替えたとき、おでこのライトケースはそのまま活用されました。というよりは、白熱灯の入っていたライトケースに、シールドビーム灯を入れただけということでした。

 通常、この手の工事を施されると、多くはライトケースもシールドビーム灯に合わせた改造がなされますが、2200系ではそのような工事はありませんでした。

 そのため、外観はほとんど従来と変わらなかったのです。

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 京阪本線の昇圧は1980年代に入ってようやく実現しました。

 そして、昇圧が実現した翌年の1984年には、早くも2200系は改修工事を施されることになります。

 この工事では、車体に大きな手を加える大規模な内容となりました。運転開始からこの時点で既に20年が経っていたので、今後さらに使い続けることを考えると、ちょうど改修(更新)の時期だったといえます。

 前面の助士席側にあった開閉可能なサッシ窓は固定窓へと替えられました。

 前面の貫通扉も先頭車が編成の中間に組み込まれ、他車と通行ができるように考慮された幌付内開きの扉だったのが、中間組み込み時の通路の貫通を考慮しない、非常用扉としての機能となった外開き扉に交換されます。

 そして、この扉には行先と列車種別表示器を組み込みました。それまでは、昔ながらの金属製の行先表示板を使っていました。新しい表示器に変わったことで、夜間の視認性がよくなり、接客サービスの向上にもつながりました。また、表示板の制作費をはじめ運用や交換といった手間やコストを省くことができるようになりました。
 
 車体も改修が施されましたが、電装品も変わりました。
 2200系は昔ながらの抵抗制御方式でした。しかし、1970年代のオイルショックを経て、省エネルギーが叫ばれるようになりました。抵抗制御では、速度を落とすときの運動エネルギーを、抵抗器で熱エネルギーに変換して捨ててしまいます。せっかく走行用のモーターで電気を発電しても、それを活用できないでいました。

 できれば、熱に変換して捨てているエネルギーを、電気に変えて活用したいところです。

 1980年代には、そうした電気を架線に戻して活用して省エネ性を高める、回生ブレーキが実用化されていました。
 ただし、それには条件があり、高価な半導体を使った電機子チョッパと呼ばれる制御方式か、少し複雑な構造でメンテナンスに手間がかかる複巻電動機を走行用のモーターに使う界磁チョッパという方法がそれでした。
 どちらも回生ブレーキが使えて省エネ性が高まりますが、デメリットもあったために、導入に二の足を踏んでしまう事業者もありました。200系のような既存の車両に、高いコストをかけてこれらの機器に載せ替えるのは、あまり得策ではなかったでしょう。

 ところが、比較的低コストで回生ブレーキを実現できる方法が開発されました。
 旧来からの抵抗制御に回路を付け加えるだけで、モーターを発電機として電気を発生させ、その電気を架線に戻すことができる回生ブレーキを使うことができる、界磁添加励磁制御という方法です。
 これなら、高価な半導体を使った装置も不要で、メンテナンスが煩雑になるモーターへの交換も不要、しかもそれまでの抵抗制御をもとにしているので、お値段も安く抑えられて省エネ性を向上させることができます。

 2200系も、この改修時に制御装置を抵抗制御から界磁添加励磁制御の装置へ載せ替えました。

 すでに誕生してから20年選手でしたが、この回修工事で面目を一新し、時代の流れに合った性能を与えられました。

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 大規模な改修が施された一方で、誕生したときと変わらないものもありました。

 19m級の車体に3扉という、関西地方の鉄道車両では標準的なドア配置でした。そのため、客室の窓配置もドア間3枚という、これもまた関西の私鉄ではよく見かけるものです。

 この窓、阪急では1枚下降式という窓ガラスが1枚で、それを上から下に降ろして開くことができる方式です。しかし、そのような窓を1960年代に採用していたのは阪急ぐらいなもので、京阪はといえばごくごくオーソドックスな下段上昇上段下降式の2枚窓でした。
 こう書くとなんのことやらと思われるかも知れませんが、昔よく見かけた下の窓のつまみを両手で持って、思い切り力を入れて上に上げて開く、あの昔ながらの窓です。

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 いまやステンレスやアルミ合金車体が主流になり、ともすると1枚の大きな窓ガラスをはめ込んだだけで、手動で開くことすらできない窓の鉄道車両が多くなった今日、このようなメカニカルな窓は貴重な存在になってきました。

 短めの車体に細めの窓が並ぶ姿は、20mの大型車体に、しかも窓が開かない構造の車両に見慣れると、何とも騒々しいような気もしなくもありません。
 冷房装置など載せることが贅沢で、普通列車のような一般列車に使われる車両は、夏になれば窓を開けることが当たり前だった時代、こうして細かく窓配置が細かく区切られていれば、必要な量の風を車内に呼び込むのも可能だったのではないでしょうか。

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 そんな昔ながらのサッシ窓を見ていると、これもまた懐かしいものが目に入ってきます。

 下段の窓をロックして不必要に開くことを防ぐロック装置です。
 下段のまでの両端にあり、斜めのレバーを親指で押し込んでロックを解除し、人差し指と中指で小さなつまみをもって、重い窓ガラスを上に上げていく。
 昭和の時代、冷房のない鉄道では当たり前だったこの作業も、今となってはあまり活躍する機会もないでしょうが、こうしたアイテムはとても懐かしく感じます。

 使われる機会は減ったとはいえ、平成もそろそろ終わろうとする今もなお、この小さな装置が現役でいることは、言い換えれば先人の残した設計は、強固で長持ちがする、そして実用性に長けた優秀な逸品だったといえるでしょう。
 今日の平成世代の車両にはない、信頼性があるともいえます。

(次回へつづく)