旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 北の鉄路を守ったディーゼル機関車【2】

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《前回のつづきから》

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 1962年に登場したDD15は、基本的な性能はDD13と大きく変わりませんでした。装備するエンジンも500PSの出力を持つDMF31SBを2基とし、機関車出力は1,000PSでした。重連総括制御も可能なので、DD13 300番代と同じ性能をもっていました。

 異なるのは、車両の前後に大型のスノープラウを備えたラッセルヘッドを装着可能にするため、ランボードにはこれを連結するためのブラケットが装備されたことでしょう。また、豪雪地帯を降雪時に運転するため、窓には雪切り用の旋回窓を備え、さらに視界を確保するためにボンネット前面に装着した2個のシールドビーム灯のほかに、キャブ上部にも後付のシールドビーム灯を2個取り付けました。これでも足りなかったのか、ラッセルヘッドにもシールドビーム灯を2個備え、最大で4個の前部標識灯をもつ物々しい出で立ちになりました。

 これだけの装備をもつと、当然のことですが車体重量が嵩んでしまいます。車体重量の増加は軸重にも大きな影響を及ぼすので、このままではDD13では入れた路線も、フル装備のDD15では入ることができないということも起きてしまいます。そこで、夏季は入換用に、冬場は排雪列車用にと割り切った運用とすることで、搭載する燃料を2,000Lから1,500Lに減らし、さらに台枠も50mm薄くすることで車体重量を軽くしたのです。

 こうして本格的な除雪用ディーゼル機関車として登場したDD15は、蒸機運転が恒常化していた排雪列車の動力近代化のために、上信越や東北、そして北海道の各地に配置されていきました。

 今回ご紹介する写真は、三笠鉄道記念館に保存されているDD15 17号機です。

 1963年に日車で落成した17号機は、新潟運転所に新製配置されます。上信越の豪雪地帯で冬期の除雪に貴重な戦力として、新潟周辺の路線で活躍をはじめました。新製から1年後の1964年に長岡第一機関区へ転出しますが、運用する場所は大して変わりませんでした。

 更に翌1965年には直江津機関区へ転出し、北陸本線を中心に活躍の場を移していきます。豪雪地帯であることには変わらず、17号機も引き続きこれらの路線の排雪作業に活躍をしました。

 新製以来、1年毎に配置転換を繰り返してきましたが、直江津区時代は10年ほどと長く続きました。

 1975年には走りなれた北陸・上越を離れ、遠く北海道の名寄機関区へ配置が変わりました。北海道もまた上信越北陸地方と同じく雪が多いところでしたが、これらの地域の雪は湿り気の多い雪質であるのに対し、北海道は気温が低いために湿り気のない、サラサラの雪質でした。とはいえ、ラッセル式の除雪装置を持つDD15はロータリー式に比べると雪質による排雪の影響は少なく、やはりここでも重宝されたことでしょう。

 名寄区でも10年ほど活躍を続け、主に宗谷本線や名寄本線深名線で除雪作業に従事しました。

 1985年には国鉄分割民営化が具体化してきたこともあり、合理化の波に飲まれて名寄機関区は旭川機関区に統合されていきます。統合された後は旭川機関区名寄支区となりましたが、配置は変わることはありませんでした。

 変わらず宗谷本線などで活躍を続けていましたが、ディーゼル機関車による排雪列車の運転は、これを運転する機関士が必要になるなど、運用コストの面では不利に働いてしまいました。特に、国鉄の末期は膨大な赤字を抱えていて、合理化によるコストの削減が必須であったことや、これを継承する北海道会社は他の旅客会社と比べても、経営基盤が非常に脆弱であることが想定されていたため、国鉄時代のまま継承することは望ましいものではありませんでした。

 新会社、特に経営基盤が脆弱であることが予想された三島旅客会社と貨物会社には、必要最小限の車両と施設を継承させる方針になったため、厳冬になる北の大地で必須の装備となる除雪用ディーゼル機関車も、状態のよい車両で必要最小限だけを残して、あとはすべて廃車とする方針になったのです。

 17号機もまた、その整理の対象になってしまい、1987年に旭川機関区を最終配置として廃車になりました。

 この間、厳冬の北海道では、雪から鉄路を守る役目を担い続け、その能力を発揮して列車の安全運行を支え続けてきたのです。

 廃車後、多くの僚機は解体処分されて姿を消していきましたが、17号機は幸運にも解体処分の憂き目からは逃れました。1987年に開館した三笠鉄道記念館に運び込まれ、そこで静態保存されることになったのです。

 三笠鉄道記念館は、かつての幌内線の終着駅を活用して開館した施設で、17号機が活躍した宗谷本線とは異なる場所でしたが、かつて、厳冬の北の大地で鉄路を守ってきたこと、そして三笠鉄道記念館の開館と同じ時期に廃車となったことから、この地に安住を得たのでした。

 首都圏に生まれ育った筆者にとって、こうした除雪用ディーゼル機関車は全くといって縁のない存在で、鉄道マン時代も九州と関東が仕事場だったので、目にする機会はありませんでした。

 

f:id:norichika583:20200428171651j:plainDD15は冬季の豪雪地帯で排雪列車として運用されるため、極寒地向けの装備を数多く備えていた。キャブの前面窓と出入口扉の窓には、雪切り用の旋回窓をそなえ、さらには降雪時など視界を確保するため、前面窓上にはシールドビーム灯が取り付けられていた。ラッセルヘッドにも同様にシールドビーム灯が2個取り付けられていたので、合計で4灯の前部標識灯をもつという、物々しくも頼もしいフォルムである。三笠鉄道記念館に保存されている17号機は状態はよいのだが、記録写真を見る限りキャブ部分の白帯より上はボンネット上部と同じねずみ色に塗装されているのに対し、17号機はDE10などと同じ塗り分けになってしまっている。恐らくは、化粧直しが行われたときのエラーなのかもしれない。まあ、これはこれで「あり」の塗装パターンと思うのは筆者だけかも知れないが。
(DD15 17 三笠鉄道記念館 2016年7月26日 筆者撮影)

 

 そもそも実家近くにあった新鶴見操車場は重入換用のDE11の独壇場である、DD13に端を発するこのタイプのディーゼル機関車自体も、鶴見線にまで出向かなければ目にすることのない機関車だったので、丸い前部標識灯とねずみ色が多い塗装、小柄な車体は珍しいとさえ感じていました。

 鉄道マン時代には、何度か大雪に見舞われることもありました。筆者のように線路内で作業をすることを主たる職務にしている部署では、当然、雪は降れば除雪作業をせざるを得ません。貨物会社は本線をほとんど持たないので、DD15のような除雪用ディーゼル機関車など保有はしておらず、しかも関東のように雪が降る日など稀な地域に、冬場にしか活躍しない機関車など贅沢な装備なので、当然ですが人力で行うしかありませんでした。まあ、実際に広い貨物駅構内で雪かきなどしていると、モーターカーでもいいから除雪機械があったらどんなに楽なことかと考えながら、スコップで雪を取り除いていたことを思い起こします。

 とはいえ、積もった雪は鉄道輸送では安全を脅かす存在です。少々の雪であれば、車両に取り付けられたスノープラウで対応できますが、積もりに積もった状態では刃が立ちません。脱線の危険も伴いますし、転轍機の不転換など保安設備の誤動作にも繋がりかねません。ですから、除雪作業は冬期の鉄道では欠かすことのできない作業で、古くから人力による人海戦術で行われてきました。

 そうした人力では限界のある除雪作業を、動力を蒸気機関からディーゼル機関へと進化させ、同時に老朽化が進んでいたキ100に代表される事業用貨車である雪かき車を置き換え近代化を進め、かつてはキマロキ編成のように最低でも2両、強力編成ともなると4両から最大でも8両と大規模になるのを、DD15のように1両で済んでしまうというのは画期的なことだったといえるのです。

 その証左に、17号機は1987年に廃車になってしまいましたが、民営化後も多くが旅客会社に継承されて近年まで活躍を続けました。特にJR西日本に継承された車両たちは、糸魚川や福井に配置されて北陸本線を中心に運用され続けました。最後まで残っていた11号機は、実に40年以上も運用されて2017年6月に廃車とされました。

 DD15は豪雪地帯の鉄道にとっては欠かすことのできない存在で、言葉通りに北の鉄路を守り続けた「守護神」だったのです。

 

 今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

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