旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

走り抜ける「昭和の鉄道」 京の都から浪速へ川沿いを走る老兵・京阪2200系電車【2】

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 1964年からつくられ、それ以来時代に合わせた改良を受けながら、京の都から浪速までの間を川沿いに走り続けている京阪2200系電車

 時代に合わせた改良・・・とはいっても、基本的にはつくられた当時とほとんど変わっていないといっても過言ではないでしょう。その一つに電装品があります。

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 モーターを装備した電動車の車内。その床にはなにやら大きな蓋があります。いかにもといわんばかりのこの大きな蓋、いったい何に使うのかといえば、この下にはモーターを装備した台車があるのです。

 いわゆる「点検口」と呼ばれる、モーターを点検するときに開くための蓋なのですが、京阪2200系の蓋はほかの同様の電車と比べても大きく、点検するためだけではなさそうです。

 実際のところは分かりませんが、恐らくは点検口を大きく取ることで、モーターの検査をしやすくすることと、部品交換を容易にするためと考えられます。

 こうした点検口があるのは1990年代以前につくられた電車に多く見られます。言い換えれば、昭和時代につくられた電車の大きな特徴の一つです。

 これは、電車に装備されたモーターに由来するものです。
 1980年代終わりに開発されたVVVFインバーター制御は、電車用のモーターに交流モーターを装備することを可能にしました。架線から取り入れた直流1500Vの電気を、インバーターと呼ばれる電子回路を通すことで交流電気に変換します。そして、直流~交流へ変換するときに、電圧と周波数を連続的に制御することで、交流モーターをその時必要とされる回転数に制御することができるのです。

 ところが、それ以前は交流モーターを使うことができませんでした。交流モーターを動かすために必要なインバーター回路を構成する半導体が開発されていなかったのです。いえ、正確には開発されていましたが、鉄道車両に必要とされる電圧や電流値をコントロールできる半導体が開発途上だったのです。

 そのため、これ以前の鉄道車両は直流モーターを使うことが一般的でした。
 直流1500Vを架線から取り入れ、モーターとの間に抵抗器を入れることで電圧を調整し、その時必要とされる回転数を得るための電圧をモーターに流すというものでした。*1

 いわゆる抵抗制御と呼ばれる方法です。
 回路も簡単、部品も基本的なもので構成されたので、昭和期の電車に多用された制御方法でした。

 ところが、この直流モーターはまめにメンテナンスをする必要があったのです。ブラシと呼ばれる部品が摩耗し、一定の周期ごとに交換しなければなりませんでした。また、ブラシが摩耗していないかも点検する必要がありました。
 このため、昭和時代の電車には、こうした点検口が設けられていたのです。

 そして京阪2200系は、もう一つ変わった経歴を持っていました。

 2200系が誕生した頃、京阪線の架線電圧は600Vと低い電圧でした。これは、京阪本線がもともと軌道(=路面電車)として建設されたことに由来します。京阪本線が開通した当時は今日のような高速運転に適した線路ではなく、急峻なカーブが多く、道路上に線路を敷く併用軌道が至るところにあったため、こうした低い電圧に設定されたのでした。

 その後、時代が進むにつれて併用軌道は解消され、さらに線形も急峻なカーブも少なくするなど改良が進んでいきました。しかし、戦後しばらくの間は600Vのままだったので、2200系もまた600Vの架線電圧に対応した機器を装備していました。

 ところが高度経済成長期に入ると、京阪線も輸送量が多くなっていき、列車のスピードアップが求められるようになりました。

 列車のスピードを上げるためには、電車が装備しているモーターの出力を上げなければなりません。モーターの出力を上げるためには、モーターそのものを高出力になる設計をするか、モーターに加える電気の電圧を上げるかをしなければなりません。

 モーター自体の出力を上がるように設計をすることは可能ですが、そうするとモーターが大型化してしまいます。電気機関車のように艤装する空間に余裕があればできますが、電車のように限りがある場合には実用的ではありません。
 そうなると、あとは架線電圧を上げる方法になります。

 電圧を上げると同じモーターでも出力は変化します。
 小学校3年生の理科で、乾電池と豆電球の学習があります。乾電池を1個つないで豆電球の明かりを点したときと、乾電池2個を直列につないで豆電球の明かりを点したとき、乾電池2個のほうが豆電球は明るくなります。これは、乾電池1個では電圧が1.5Vだったのが、乾電池2個を直列につなぐことで倍の3Vになるからです。

 これと同じ理屈で、1970年代後半になって京阪は線路の架線電圧をそれまでの600Vから1500Vへと昇圧しました。2200系もこの昇圧に対応して、登場当時は出力130kWだったのが、1500Vに昇圧してからは155kWへと出力が上がりました。もちろん、高速性能も向上していきます。

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 この昇圧で、2200系は1974年から昇圧工事を受けました。

 その工事と同時に、冷房化工事も受けることになります。1970年代で、優等列車専用でない一般用の車両に冷房化工事を施すのは、比較的早いほうだったといえるでしょう。それだけ、京阪神間を走る鉄道が置かれた環境は厳しく、乗客の奪い合いが熾烈だったということです。

 この工事では、パンタグラフが交換されました。昇圧工事で大きな変化はありませんでしたが、冷房装置を載せるために従来の菱形では手狭になってしまったのです。
 そこで、折りたたみ面積の少ない下枠交差式のパンタグラフへと交換されました。

 これは、冷房装置を1両あたり5基載せるためでした。そして、国鉄や関東の大手私鉄とは異なり、その線形などの環境から関西の私鉄は20m級の車体長がある車両ではなく、18~19m級の短い車体を導入していたため、冷房装置を5基載せるには、パンタグラフを小さくしなければならなかったのです。

 いずれにしても、早い時期での冷房の装備は関西私鉄の一角である京阪にとっても必要で、車体長の短さからこうした工夫をして接客サービスを向上させ、一人でも多くのお客さんに乗ってもらう努力をしたのでした。

 

*1:抵抗制御の詳しい解説は、拙著のj-train 2019年1月号を参照されたい。