旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 房総半島が気動車王国であったことを物語った久留里線のキハ30【3】

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《前回のつづきから》

blog.railroad-traveler.info

 

 ところで、キハ35系気動車としては異色の存在だといえるでしょう。

 そもそも気動車は非電化の鉄道路線で運用することが前提です。非電化ということは、ごく一部の例外を除いて電化するほど輸送量が多くない、ローカル線がほとんどだといえます。そうした路線では、2ドア、セミクロスシート、そして1両編成から運転可能な形式が用いられ、国鉄形でいえばキハ20系やキハ40系がその代表格といえるでしょう。急行形と分類されるキハ58系も、晩年はローカル輸送に用いられましたが、こちらも2ドアであることは同じですが、客室の設備はクロスシートがずらりと並び、どちらかといえばローカル輸送にはあまり向いていないものでした。それでも、キハ58系がローカル線の普通列車に用いられたのは、本来の仕事である急行列車がなくなり、余剰となっていたところへ、キハ10系やキハ55系といった気動車黎明期の車両が老朽化したその代役といった意味合いが強かったと考えられます。

 話はそれましたが、キハ35系はこうしたキハ20系やキハ40系とは異なり、3ドアにロングシートを備えた収容力が高い、いわゆる通勤形の体裁を持つ気動車でした。先程もお話したように、非電化路線は輸送量が比較的少ない路線が多いのですが、キハ35系はこうした設備をもって、非電化ながらも輸送量が比較的多い大都市近郊で運用することを目的に設計されたのでした。こうした収容力をもつ気動車は、国鉄時代はキハ35系のほかは、キハ38以外はなく、それだけ特異な存在だったといえるでしょう。

 この収容力に優れたキハ35系は、1961年に奈良気動車区(後に奈良電車区、現在の網干総合車両所奈良支所)に配置し、関西本線奈良線などで活躍をはじめました。その翌年には、首都圏にほど近い気動車王国である千葉気動車区に新製配置され、内房線外房線をはじめとした房総各線の普通列車に充てられました。奈良は大阪、千葉は東京と大都市圏近郊で、しかも非電化路線を数多く抱えるため、通勤形のキハ35系が最も適した路線だったのです。

 

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▲JR木原線を転換したいすみ鉄道いすみ線。大原ー上総中野間の非電化路線は、久留里線と同じく気動車王国時代を語りつぐ存在ともいえる。木原線そのものは、その線名が示すように久留里線と接続させて房総半島を横断する鉄道(更津-大)として計画されたが、乗車人員が見込めないことなどを理由に両線とも盲腸線のままであった。三セク転換後は、写真のように当時のいすみ鉄道社長の発案で、様々な集客施策が行われ、キハ20を模したNDCを登場させるなど、話題を提供したことでも知られている。(大多喜駅 2013年6月 筆者撮影)


 千葉気動車区に配置されたキハ35系は、その後、ステンレス製の車体をもつキハ30 900番代などが追加で配置されました。総勢で70両近くのキハ35系が千葉気動車区と同木更津支区に配置され、その収容力を生かして通勤通学ラッシュで押し寄せる多くの利用者を捌き、日中は1両単位で運用ができる気動車の特性を活かして、需要に合わせた柔軟な運用をこなし続けたのでした。

 その後、内房線など房総半島の主要な路線は電化されたため、キハ35系の活躍の場は給食に狭められていきました。しかし、木原線と久留里線は電化の対象から外され、非電化のまま残されました。しかし、輸送密度が低い盲腸線なので、ここで運用される車両はそれほど多くを必要としなかったので、最低限の車両だけを残して、殆どは高崎第一機関区(後に高崎運転所、現在の高崎車両センター高崎支所)や茅ヶ崎運転区に転出していきました。

 残ったキハ35系は、久留里線や木原線を走り続けました。もちろん、かつてのように3〜4両という気動車としては長い編成を組むことはあまりなかったでしょう。特に日中はキハ30が1両だけというのも珍しくなく、田畑が広がり、房総の丘陵地帯の中をのんびりと走る姿は、ここが首都東京から100kmも離れてない場所だとは想像し難いものがあるかもしれません。

 1987年に国鉄分割民営化が行われ、久留里線と木原線はJR東日本に継承されました。キハ30の住処であった千葉気動車区は房総各線の電化によって廃止され、木更津支区は佐倉機関区の所属となります。更にときは移り、佐倉機関区は分割民営化でJR貨物が継承することになったため、木更津支区は幕張電車区の管轄へと移されました。電車を運用管理する電車区の中に、気動車を運用管理する運転区所が置かれるという、国鉄時代では考えられないような組織変更となったのでした。

 1987年に木原線が第三セクターへ転換して廃止されると、木更津支区のキハ30はいよいよ久留里線だけが活躍の場となってしまいます。かつては気動車王国とさえいわれ、房総半島の国鉄線上には気動車が跳梁跋扈していたとは想像できないほど、その数も、活躍の場も少なくなってしまったのです。

 

《次回へつづく》