旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

国鉄時代の鉄道管理局標記と民営化後の支社標記【1】

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 いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。

 国鉄〜JRの車両についての記事を書いていると、必ず気に留めることがあります。それは、旅客車であればその車両が配置される区所の電報略号と、管轄する支社の標記です。

 一方、貨物会社に所属する車両の多くは貨車ですが、貨車の運用は国鉄時代と大きく変わっていません。汎用的に運用されるコンテナ車は、特に運用区間を限定されている場合は、常備駅が設定されています。また、JR貨物保有する貨車で、コンテナ車以外の貨車も常備駅が設定されているものもあり、その場合には管轄する支社記号と常備駅が書かれています。この方法は、国鉄時代と変わっていません。

 

 例えば1990年代終わりまで活躍した穀物等専用のホッパ車・ホキ2200は、運用区間が限定されていたため、常備駅が設定されていました。

 例えば国鉄時代には鶴見線大川駅を常備駅に指定されていた車両は、管轄するのが東京鉄道管理局だったので、大きく「南」と書かれ、その下には「大川駅常備」と記されていました。

 民営化後は、鶴見線JR東日本の東京地域本社が管轄していましたが、貨物輸送はJR貨物関東支社が受け持ちになりました。当然、大川駅常備になっていたホキ2200は、JR貨物の車両となりました。

 それでは、このホキ2200の標記はどうなったでしょう。

 当時のJR東日本東京地域本社の支社標記は「」になりました。京地域本社のから採られたのです。面白いことに、国鉄時代にはこの「東」の標記を使っていた時代がありました。東京三局に分離される前は、東京鉄道管理局だったので、その時代は「東」を使っていました。そのためか、民営化直後の「東」の標記は、その頃に使っていた書体を流用していたようで、独特の字形をしていました。

 さて、JR貨物関東支社の支社標記はというと、やはり「」でした。これは旅客会社と連動していたのではなく、関支社の「」から採られたのです。ふつうなら、頭文字からとりますが、JR貨物には関西支社もあるので、頭文字を使うことができなかったのです。

 

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JR貨物保有するトラ45000。事業用として残された二軸無蓋車で、あおり戸は木製であるなど「半鋼製」の貨車である。積荷は車輪を載せていることから、恐らくは大宮車両所と川崎車両所の間を配給車の代用として運用しているものと思われる。標記は関東支社を表す「東」で、常備駅を川崎貨物駅としている。

(©<Chabata_k(Japan), CC BY-SA 3.0, 出店:Wikimedia Commons>

 

 ちなみに、筆者が一時だけ配属されていた州支社の支社標記は「」です。黒崎駅に常備されていたチキ5500(二代)や、東小倉駅常備のワキ50000の車体にも、「九」の標記がありました。

 JR九州の母体となったのは、国鉄九州総局と熊本鉄道管理局、大分鉄道管理局、そして鹿児島鉄道管理局です。九州総局の前身は門司鉄道管理局で、局標記は「門」でしたが、1985年の組織改正で上部組織である九州総局と統合されてしまいました。しかし、標記は「九」にはせず、そのまま「門」が使われましたが、分割民営化によってそれも消滅してしまいます。

 

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香椎操に留置されているレサ10000には、門司局所属を表す「門」の標記が書かれていた。国鉄時代の局標記は、東京局の再編によって発足した東京南、東京北、東京西の三局を除いて、独特の書体で書かれていた。「門」も6画目に「はね」がなかったり、3角目と7画目は中央に垂れ下がっているなど、国語の授業では絶対に教えない書き方となっていた。これは、他の文字と識別を容易にするための工夫とも、標記を書くためのシルクスクリーンを作りやすくするためとも言われている。このレサ10000は、廃車後は長らく東小倉駅に留置されたあと、新車同様に再整備を受けて大宮の鉄道博物館に収蔵され今も見ることができる。

(©シャムネコ, CC BY-SA 4.0, 出典:Wikimedia Commons)

 

 JR九州発足後、九州総局が管轄していた路線と運転区所は本社鉄道事業部の管轄だったので、所属標記は「本」でした。2001年に入ると北部九州地域本社に管轄が移ったので、所属標記も「北」になりました。これだけ見ると、国鉄時代の東京北鉄道管理局のようにも見えたでしょう。後に再び本社直轄に戻ったので、発足当初と同じ「本」に戻りました。

 ところでJR貨物北海道支社に所属する車両も、支社標記は「北」です。同じ標記が一時的にせよ2つも存在したことになります。国鉄時代はこうしたことは絶対に起こり得ないことでしたが、民営化後はそれぞれが違う会社であることや、北海道と九州では地理的にも遠く離れていて、両者を行き来する車両は存在しなかったので、不便はなかったのかもしれません。

 民営化直後はすべてがコンテナ輸送に切り替えられたわけではありませんでした。拠点間輸送方式の車扱貨物輸送も続けられていて、私有貨車だけではなくJR貨物保有する貨車でも続けられていました。

 ワキ5000は30トン積み有蓋車で、ワム80000の2倍の輸送力がありました。分割民営化を前に多くが余剰として廃車になってしまいましたが、製作された1515両のうち、なんと1,300両がJR貨物に継承されました。輸送力が大きいことが、拠点間輸送では使い勝手が良かったのでしょう。

 そのワキ5000のうち、東海支社に所属する車両がありました。支社標記は「」で、東支社の「」から採ったものです。

 

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JR貨物東海支社に配置されていたワキ5000の例。側扉には東海支社を表す「海」の標記がある。両端にワム80000が連結されているので、営業用として運用されていた車両の一つと考えられる。分割民営化直後は、写真のように車扱貨物も数多く運転されていて、東海支社配置のワキ5000は、富士駅を常備駅に定めて紙輸送に用いられていたという。後年、ワキ5000と同等の荷室を備えた30Aコンテナが製作されるまで運用が続けられた。

(©<永尾信幸, CC BY-SA 3.0, 出典:Wikimedia Commons)

 

 JR貨物東海支社は、JR東海と対になる貨物会社の組織です。そのJR東海は、会社発足時から旧名古屋鉄道管理局管内は東海鉄道事業部の管轄でした。この東海鉄道事業部の標記は「海」で、今日もこの標記が使われています。JR東日本の東京地域本社(現在は東京支社)の「東」とJR貨物関東支社の「東」と同じように、旅客会社と貨物会社で同じ標記を使うという現象が続いています。

 ところで、JR貨物のコンテナ車の運用は、以前にもお話したように原則として所属する区所はなく、全国どこでも運用されています。東京貨物ターミナルから福岡貨物ターミナルまで運用された車両は、そのまま東京貨物ターミナルへ戻るのではなく、極端な話が札幌貨物ターミナルの列車に組み込まれることもあります。ですから、旅客車のような所属を示す標記はありません。

 しかし、あくまで「原則」なのです。

 

《次回へつづく》