旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 目蒲線時代、数少ない冷房車だった7200系【2】

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《前回のつづきから》

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 7200系も登場当初は東横線田園都市線といった、東急電鉄でも本線格の路線で運用されていました。しかし、増加の一途をたどる利用者を効率的かつ安定的に輸送するためには、18m級車体をもつ車両ではもはや太刀打ちができなくなっていたため、車両を20m級に大型化した8000系を導入しました。

 8000系が増備されてくると、18m級でしかも地上線でしか運用できない7200系は活躍の場を失っていきます。田園都市線も、新玉川線の開業と営団半蔵門線との直通運転が決まり、8500系の増備が決まるとますます活躍の場を狭めていきました。

 こうして、東横・田都の両線を追われた7200系は、大井町線で6両編成を組んで第二の活躍を始めます。しかし、この当時の大井町線にはやはり東横・田都を追われた5000系や5200系、さらには施策的要素が強かった6000系日比谷線直通に未対応だった7000系が入り乱れるように運用されていたので、7200系はその間を埋める程度しか場がなかったのです。

 そこで、名鉄へと譲渡されていったデハ3700や、戦災国電の復旧車であるデハ3600の後釜として、5000系の一部とともに7200系も転属していたのでした。後に、5000系が地方の私鉄へ次々と譲渡されていくと、その穴を埋める役目を担わされて、目蒲・池上の両線にも7200系が増えていったのでした。

 今回の1枚は、1984年頃に多摩川園駅(現在の多摩川駅)で捉えた、目蒲線を走る7200系です。目黒方はデハ7251なので、7251Fであるとわかります。

 

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多摩川園駅を蒲田に向けて発車していく7200系7251F×3連。この頃はまだ、ライトグリーンに塗られた鋼製車である3000系が主役で、7200系は大井町線から溢れた一部が配置されれているに過ぎなかった。そのため、東急線の中では冷房化率が最も低く、旧性能車である3000系は当然冷房などの装備はなく、夏は窓を全開にしなければならなかったのに対し、7200系は冷房化がされていたので、この車両がくると「乗り得」感を味わえた。乗務する車掌の制服も二代前のもので、70年代に流行った襟が大きいデザインのものを着用しているが、乗務員にとっても冷房装備の7200系なら、快適だったことが想像できる。写真に写るデハ7251は、2000年までに東急線で活躍した後、豊橋鉄道に譲渡されてモ1807と名を改め、2021年現在も渥美線の主役として走り続けている。(7251F 1988年頃 多摩川園駅 筆者撮影)

 

 行き先も表示も「蒲田」になっていますが、黒地に白文字で書かれていることから、自動方向幕に替えられていることがわかります。製造当初は、7000系も7200系も白地に黒文字で、乗務員がハンドル操作をすることで幕を変える手動式でしたが、後年の改造で自動式に変えられた際に黒地に白文字の幕になりました。

 屋根の上には分散式冷房装置も搭載しているので、目蒲線では数少ない冷房車であることもおわかりいただけると思います。この頃の東急電鉄ステンレス車は、まだ赤帯などは巻かれていない、新製時に近い外観でした。そのため、晴れた日にはステンレス鋼独特の輝きを放っていましたが、曇天や雨天の日には空の色などに溶け込んでしまって目立ちにくいものになっていました。写真も雨が降る中での撮影をしたので、背景の空の色に溶け込んでしまっているように見えます。

 実は、この「見分けにくい」というのは、鉄道マンにとってあまり歓迎できるものではないのです。特に線路上での執務をする施設(保線)や電気(信号通信、電力)に携わる鉄道マンにとっては、“見分けにくい=発見の遅れ=触車事故の危険”というように、一歩間違えれば命取りになりかねないことなので、ことさら忌避したいものなのです。

 筆者も線路内で執務をする鉄道マンでしたが、制服は背景の色に染まりにくい青色ものを着用していました。また、線路へ出るときには必ず黄色の反射材(ほとんど蛍光イエローでしたが)を縫い込んだ安全ベスト、そして黄色の保護帽(ヘルメット)の着用は必須で、目立つ色だからこそ見分けがつくので危険を回避しやすくなるというのでした。ですから、写真のように背景に溶け込みやすいステンレス鋼の色は、線路内の現場に出たときには、できればこうした状況に出くわしたくないものなのです。

 写真に写るデハ7251の乗務員室には、車掌が二人も乗務しているのが見えます。おそらくは、一人は車掌見習いで、もう一人は指導車掌なのでしょう。着用している制服も、襟が大きな解禁のライトブルーのシャツで、1970年代に採用されたものです。先代の制服は国鉄のものに似せたのでしょうか、襟には桐紋の襟章を着用し、制帽も桐紋に東急電鉄の社紋(丸の中央にレールの断面、中央から左右に羽が広がる意匠の旧社紋)だったそうです。ちなみにこの頃の冬服は、多くの鉄道会社で採用されていた濃紺ではなく、濃緑色とちょっと変わった色合いでした。その分だけ、垢抜けた感じがしたのは筆者だけでしょうか。

 まだ目黒線多摩川線が目蒲線と呼ばれ、多摩川駅多摩川園駅という名前で、地上をを走っていた時代、多摩川園駅を発車した下り列車は丘陵地を降りるようにして走ると、すぐに多摩川に沿うようになるため左の急カーブになります。この左急カーブは今日も健在ですが、雰囲気はこの頃とは全く異なっています。蒲田までの短い距離を、木造の小さな駅にこまめに停まっていき、最後はけして小さいとはいえないターミナル駅となる蒲田への町並みは、高くてもせいぜい2階建てで、駅前には商店街が伸びるといった昭和の光景でした。

 もちろん、この頃の多摩川園駅にも木造のホーム上屋がちょこんとあり、そしてこれもまた木造のおせじにも座り心地が良いとはいえないベンチが備えられ、次に来る列車を待つ人が数人座っていることもありました。一部の駅にはこうした光景が残っていますが、残念ながら多摩川園駅にはその欠片も残っていないので、若い人に「多摩川園駅」とか「地上にあった」といっても、本当なのかと眉を潜められてしまうかもしれません。

 とはいえ、この頃は列車が走り去ったあとは、雨が落ちる音以外は聞こえてこない、今日の喧騒とは無縁な、大手私鉄のローカル支線特有の時間が流れていました。歳のせいかもしれませんが、都会の中にあって、静かでゆったりとした時間が流れていた昔日の駅の光景を思い出さずにはいられません。

 ちなみに写真に写っているデハ7251は、東急線から退いた後は、愛知県にある豊橋鉄道へ譲渡されました。形式こそ1800系と改められていますが、塗装ラッピングを除いて東急線時代から大きく変わることなく、渥美線の主役として活躍を続けています。

 

 今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

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