旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

貨車の色にも「意味」があった【4】 穀物専用のホキも最初は黒色だったが・・・

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《前回のつづきから》

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穀物専用のホキも最初は黒色だったが・・・ 

 数ある国鉄貨車の中でも、冷蔵者と並んで一際異彩を放っていたと思えるのが、穀物のバラ積み輸送用のホッパ車・ホキ2200でした。

 穀物のバラ積みは比較的歴史が浅く、1966年から始められました。それまでの穀物輸送は、袋詰にして有蓋車に載せて運んでいたため、非常に手間とコストがかかる方法あったのです。戦後の経済発展とともに、主食とされる米を除いて国内産が減り、代わって輸入によって賄われるようになったこと、需要が旺盛なため従来の袋詰では捌くことができない量を輸送するようになったためでした。

 一見するとタンク車にも似ているホキ2200は、ホッパ車としては大型のホッパ体をもっていました。このホッパ体の形状は、ホキ2200が登場するよりも3年前にサッポロビールが私有貨車として所有していた麦芽専用のホキ6600を基本に、積載荷重を30トンと可能な限り大きくしたためでした。

 ホキ2200の基本となったホキ6600は、製造当初は国鉄の貨車塗装の標準色である黒色に塗られていました。しかし、実際に運用を始めてみると、黒色であるがゆえに熱を吸収しやすく積荷の麦芽を痛めてしまうというトラブルに見舞われたようでした。

 せっかく大量に輸送できる貨車でも、大切な積荷を痛めてしまっては元も子もありません。そこで、熱を吸収しにくい塗色にしようとしましたが、白色はすでに冷蔵車の塗装を決まっていたので、これに代わる熱吸収を抑える色として選ばれたのが、クリーム色4号、通称「小麦色」と呼ばれる色だったのです。

 ホキ6600の実績をもとにし、国鉄所有の穀物類輸送用の物資別適合貨車として登場したホキ2200は、車両限界いっぱいにまで膨らんだホッパ体と、クリーム色の塗装と相まって目立つ存在でした。

 穀物類の輸送は基本的には拠点間輸送になるので、他の貨物列車のように操車場を経由することはありませんでしたが、まれに新鶴見操車場で仕訳線にいる姿を見かけたことがあります。恐らくは、臨時の輸送だったのか、それとも空車回送だったのかは定かではありませんが、黒い貨車ととび色のワム80000に混ざって、クリーム色の大きな車体のホキ2200は特に目立っていました。

 

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一見するとタンク車にも見えるが、台枠を突き抜けて積み下ろし用の吐出口が見えることからホッパ車だと分かる。粒体穀物専用30トン積のホキ2200は、積荷の穀物が熱で損傷しないように、貨車の標準色である黒色ではなく、クリーム色4号で塗られていた。この色にすることで、日光の熱をある程度反射するようにした。車体も妻面から見ると卵形の断面であるが、これは30トン積にするために、車両限界いっぱいに膨らませたことによる。穀物は水に比べて比重が小さいため、同じ30トン積でも大型になってしまった。国鉄時代は全国で運用されたが、運用区間が限定されることが多いため、鉄道管理局ごとに常備駅を定めていた。分割民営化後は貨物会社に継承され、しばらくは穀物輸送も残っていた。写真はホキ2341で、札幌局に配置され東苫小牧駅を常備駅にしていた。

 

 ホキ2200は全国で運用されたようですが、車体の標記にもあったように国鉄所有の貨車としては珍しく、常備駅が定められていました。そのため、車体には鉄道管理局(民営化後は支社)の略記号と常備駅名が明記されています。例えば東京南局では大川駅が常備駅に指定されていたので、「南」の大きな文字と、その下には「大川駅常備」と書かれていたのです。実際、鶴見線大川駅に行くと、何両か留置されているホキ2200を目にすることができました。

 1987年の分割民営化では、穀物類の輸送は全廃とはならず残されました。これは、この当時もは食糧庁が存在し、穀物類の輸送の一部は食糧庁が荷主になっていたためでした。

 筆者が貨物会社で働いていた頃は、横浜にも食糧庁のサイロがあり、ここから輸入穀物を全国に発送していたので、ホキ2200はかなりの数が現役で走っていました。当然のことですが、車体の標記は国鉄時代とは代わり、東京南局を表していた「南」は貨物関東支社を表す「東」へと変えられ、常備駅も大川駅に代わって浜川崎駅となっていました。この当時、大川駅では貨物の取り扱いがあったため、常備駅を変える必要がなかったとは思われますが、恐らくは大川駅には貨物会社の職員が常駐していないため、職員配置のある浜川崎駅のほうが都合が良かったのでしょう。

 ホキ2200は食糧庁の他にも、日本製粉日清製粉などの製粉会社にも多く利用されたようで、東高島駅で取り扱っていた日本製粉専用線からも、多くのホキ2200が出入り姿を見かけたものです。

 穀物類は石油などと同じく輸入品が多く、港湾部で陸揚げされたものは国内の加工工場へ送られています。そのため、拠点間輸送に向いた物資であったことも、民営化後もホキ2200が残った理由だといえます。

 数多くがまとまった数を連ねて走ったホキ2200も、コンテナ化の並には抗えず、2000年までに穀物類輸送はコンテナ化されて姿を消していきました。今日ではタンクコンテナやホッパーパレットをドライコンテナに載せる方法で運ばれていますが、食糧庁による輸送は、食糧庁自体が消滅し、後継を担った農林水産省の地方支局などが行政の合理化によって廃止になったこと、さらに国有サイロの縮小などでほとんど行われなくなったといいます。

 ホキ2200が国鉄が所有した穀物類専用のホッパ車でしたが、とにかく荷主からは人気があったようで、輸送申込をしてもなかなか配車されない事もあったそうです。国鉄も、これだけ人気がある貨車となると増備しないわけにもいかず、1,106両が製作されました。

 しかし、国鉄所有のホキ2200の配車を待っていては、原材料の輸送が滞ってしまい、製造計画に影響が出ると考えた利用事業者は、ホキ2200と同等の貨車を自ら保有しようと考えました。もっとも、ホキ2200は日本麦酒(後のサッポロビール)が製作したホキ6600が起源ですが、穀物輸送用の私有ホッパ車はホキ2200が登場後につくられたものがありました。

 ホキ8300は全国農業協同組合連合会JA全農)が製作したトウモロコシ及びコウリャン専用のホッパ車でした。民間企業が私有貨車を製作することは多くありましたが、全農は私企業ではなく全国にある農協を束ねる連合組織なので、こうした連合体による私有貨車は珍しいといえます。

 このホキ8300も登場時は、国鉄の規則に則り黒色でした。やはり、積み荷が熱で傷んでしまう問題があり、ホキ2200と同様にクリーム色4号に塗り替えられました。

 また、サッポロビールと競合するキリンビールも、自社専用のホッパ車としてホキ9800を製作しました。ホキ9800は麦芽専用ホッパ車で、その形態はホキ2200に非常に似ているものでした。1972年から製作されたにもかかわらず、登場時はやっぱり黒色でした。こうしたあたりは、よくいえば国鉄は規定に厳格、悪くいえば融通が利かない体質で、結局は積荷が損傷してしまうことを理由にクリーム色4号に塗り替えられました。

 いずれにしても、クリーム色4号に塗られた特徴ある形のホキ2200をはじめとする穀物輸送用のホッパ車は、穀物類が傷まないための配慮であり、私達の生活を支えた重要な役割を担った貨車だったのです。

 

《次回へつづく》

 

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