旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 最後は石灰石を運び続けた古豪機【1】

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 かつての鉄道貨物輸送は、ありとあらゆるものを運んでいました。もちろん、今も同じですが、物流の主役をトラックに取って代われる以前は、貨物の輸送は鉄道が第一選択だったのです。

 例えば生活に必要なものはもちろん、身近なものでいえばビールが挙げられます。その昔はビールは瓶詰めにするのが主流で、工場から出荷されるときには、瓶に入れられてものが樹脂ケースに6本単位で運ばれていました。そのケース単位のビールを乗せたパレットを貨車に積み込みますが、そのための専用の貨車であるワム80000の584000番代が多数つくられました。

 その他にも、道路の舗装に使われるアスファルトや、家庭で使われる液化石油ガス(LPG)も貨車で運ばれていました。

 建築資材で使われるセメントの原料となる石灰石も、古くから貨物列車で運ばれています。今日でこそ、名古屋地区でホキ2000によって運ばれているだけになりましたが、かつては全国各地で石灰石輸送が行われていました。

 筆者が幼い頃から親しんでいる南武線もまた、かつては貨物輸送も盛んでした。特に、青梅線の終着である奥多摩駅からは、ホッパ車に積み込まれた石灰石列車が日中にも運転され、「赤ホキ」と呼ばれたホキ2500やホキ9500、古くはホキ4200などが機関車に惹かれて百万都市を縦断していました。

 この奥多摩駅の近傍には、奥多摩工業という会社があります。奥多摩工業はその名の通り奥多摩地域を本拠とする石灰石の採掘・販売を手掛ける企業ですが、その前身は奥多摩電気鉄道という会社で、その名の通り鉄道事業者でした。

 奥多摩電気鉄道は現在の青梅線御嶽駅ー氷川駅間(後の奥多摩駅)に鉄道を敷設することを目的に設立されました。秩父山地に連なる奥多摩地方の山々からは、良質な石灰石が採掘されるので、これらを販売・輸送する目的で設立した鉄道事業者でした。しかし、鉄道敷設免許を得て開業間近になった1944年4月に、戦時買収の対象となり国有化されてしまいました。

 この奥多摩電気鉄道と同時に戦時買収で国有化された南武鉄道(現在の南武線)や鶴見臨港鉄道(同鶴見線)、青梅鉄道(同青梅線)は、かつて存在した浅野財閥に属する企業でした。

 浅野財閥といえば、最も有名な事業はセメント製造といえるでしょう。アサノセメントはかつて国鉄のセメント専用ホッパ車も私有貨車として保有していたので、知る人も多いと思います。そして、浅野財閥の事業の一つとして、川崎市から横浜市にかけての東京湾沿岸を埋め立て、そこに工業地帯を築き上げました。これらの埋立地には、アサノセメントのセメント工場もあり、さらには製鉄業を営む日本鋼管(後のJFE)、浅野造船所(後に日本鋼管鶴見造船所などを経て、現在はジャパンマリンユナイテッド)など、今日も存在する名だたる工業企業が置かれました。その、アサノセメントなどで使う石灰石を、奥多摩から採掘して川崎や鶴見にある浅野財閥系の工場へ輸送するため、南武鉄道や青梅鉄道、鶴見臨港鉄、そして奥多摩電気鉄道を設立したのでした。

 財閥グループに良質な石灰石を採掘し、輸送することを期待されながらも買収によってなし得なかった奥多摩電気鉄道は、社名を奥多摩工業と変えて今日も存在しています。鉄道事業こそは叶いませんでしたが、奥多摩山地で石灰石を採掘する事業は続けられ、戦後もその企業として事業を続けました。

 奥多摩工業が採掘した石灰石は、かつての浅野財閥が目論んだ通り、国有化された青梅線氷川駅で貨車に乗せ、青梅線南武線を経て京浜工業地帯に展開するアサノセメントを始めとする顧客へ輸送されました。

 私鉄時代は蒸機も活躍したそうですが、国有化された頃には電化されていたこともあって、南武鉄道が発注した1001形という電機も活躍していそうです。国有化後はC11やC12といった蒸機による貨物列車も運転されましたが、南武鉄道から継承した1001形を国鉄籍に編入し、形式もED34(後にED27 10番代)に改められて引き続き使用されました。

 やがて国鉄が製造した貨物用電機が充足してくると、買収私鉄から継承した雑多な車両を淘汰していくようになります。使えるものは使えばいいではないかと思われますが、これらの買収車両はそれぞれの会社のニーズに合わせて製作したもので、そのどれもが少数形式だったのです。国鉄のような巨大な組織が、少数形式の車両を維持していくのは効率が悪く、また補修用部品もそれぞれで異なるので汎用性に欠け、結果として保守の面でコストや作業自体を増大させてしまいます。であれば、早々にこれらの車両に見切りをつけ、国鉄の標準車両を導入したほうがコスト面でも運用面でも有利に働くのです。

 しかし、ED34は形式をED27に改めましたが、1971年まで使われ続けました。この間にも、ED18が入ってきたり、ED19が使われることがありましたが、どちらも他の線区へ転出していきました。

 

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南武線の前身である南武鉄道が発注・製造した1000形電気機関車の基となった国鉄ED15は、戦前の電機黎明期に多種多様な輸入電機が導入されている中で、日立製作所がそれらを見て、自主開発を行った国産電機である。車体構造はデッキなしの箱型車体で、後の鉄道省国鉄電機は例外を除いてデッキ付であったので、非常にシンプルに見える。南武鉄道の1000形はこのED15を基にしているので、性能面などを除いて、ほぼ同形機ともいえた。南武鉄道の戦時国有化により、これらはED34という国鉄形式を与えられ、1971年の全車廃車までED16とともに青梅・南武線石灰石輸送の役を担った。(日立製作所水戸工場にて保存されているED15 1 © DAJF  出典:Wikimedia Commons

 

 南武線だけや青梅線拝島駅まで運転する貨物列車は、特に軸重による制限がなかったのでF級機も入線しました。EF13やEF15といった旧形貨物用電機は、中央本線方面の貨物列車の先頭に立っていました。ところが、南武線青梅線石灰石輸送の貨物列車の先頭には、これらF級機を使うことができませんでした。

 その最も大きな要因として、青梅線の軸重制限でした。当時の青梅線は線路等級が低い路線で、先輪をもつ旧形貨物用電機のF級機でも軸重は15トンになるため、青梅線に入ることができませんでした。ED34→ED27は軸重が12トンなので問題はなかったのですが、さすがに老朽化していたことと、そもそも買収電機であるため国鉄としては淘汰する方針もあり、これに代わる電機が必要でした。

 そこで、阪和線にEF15やED60などが投入されたことで余剰となったED16に白羽の矢が立ち、1970年にED16全機が立川機関区に集められて、南武線青梅線石灰石列車に充てられたのです。

 

《次回へつづく》

 

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