いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。
ここ最近では例にない寒さの冬が終わり、ようやく春めいてきました。いえ、春になったかと思えば、いきなり日中の最高気温が20度を超える日もあり、「ちょうどよい季節」というのが短くなったと感じるのは筆者だけでしょうか。
近年叫ばれている温暖化が進んだ結果なのかと思うと、将来は一体どうなっているのだろうと考えさせられます。筆者は日常的に子どもたちと接する機会も多く、加えて4歳になる娘もいるので、この子達がおとなになる頃、果たして生活しやすい環境になっているかと心配にもなります。
当然ですが、人が生きていくことができる環境を保つのは、筆者のような大人たちの役目でしょうし、子どもたちが幸せに生活できる環境を作っていく責任もあると思います。
そうなると、かつては経済活動だけを優先させ、環境に対して無頓着で、ありとあらゆる資源や物資を湯水の如く使い、そして食い尽くした先人たちのような振る舞いは許されないといえます。
鉄道車両もまた、こうした環境に対する変化に敏感になってきたように思います。鉄道事業者で長年活躍してその役目を終えると、廃車の手続きが取られた後に解体されていくのが常です。もちろん、かつては車体や構体の鉄鋼や、窓のサッシに使われていたアルミニウム、さらに座席のモケット生地や詰め物など、様々なものが解体されると同時に一緒くたにされて、最終処分場へと運ばれていたようです。
鉄道車両の廃車は、老朽化や陳腐化など様々な理由によってされるが、その処分の大奥はこのように解体処分となってその姿を消していく。工業製品である以上、こうした処分はやむを得ないことではあるが、近年、3Rの推進やアスベスト問題などで厳しい視線が注がれているといってもいい。(©Muyo, CC BY-SA 3.0, 出典:Wikimedia Commons)
しかしながら、こうした処分方法は年を追うごとに厳しい視線が注がれるようになり、ついには鉄道車両の廃車体をリサイクルのために分別処分する専門の事業者まで現れたといいます。
時代の流れの中で、こうした取り組みは歓迎すべきことであると考えられます。が、まだまだその数が少ないので、今後、増えることで、リサイクル素材を活用して人々の生活環境が守られることを願うばかりです。
少々前置きが長くなりましたが、鉄道車両の中には廃車手続きがとられたあと、解体処分されるのではなく中古車として譲渡される例が昔からありました。大手私鉄で活躍した後、地方私鉄へ譲渡されて新たな役割を担う車両も少なからず存在しますが、一種のリユースといえるでしょう。
大手私鉄から地方私鉄へ譲渡される鉄道車両の例で、最も多いと思われるのが東急電鉄の車両ではないでしょうか。東急電鉄といえば、我が国で初めてオールステンレス車を開発・運用し、1990年代には自社で運用する車両をすべてステンレス車にした鉄道事業者です。
東武鉄道や西武鉄道のように、路線の営業キロ数は長くなく、営業範囲も東京と神奈川県東部と狭い範囲に留まっています。しかしながら、鉄道事業だけではなく、「多摩田園都市構想」に代表されるように、沿線の不動産開発を強みとして、分譲した不動産を購入した顧客を鉄道を始め、それらに付帯する事業へ誘客して利益を上げるという手法で発展してきました。
一方で、東急電鉄は鉄道事業において、特に鉄道車両では徹底的なコスト軽減実用主義ともいえるものを製造・運用してきました。1960年代に開発された7000系は、米国バット社との技術提携によるライセンス供与によって、軽量オースステンレス車を実現させて、従来の鋼製車と比べて消費電力を軽減させることに成功しました。また、抵抗制御ながらも電力回生ブレーキを装備することで、消費電力をさらに軽減させました。
また、車体だけでなく構体もすべてステンレス鋼にすることによって、車両の補修にかかるコストも軽減させました。全般検査などでは、鋼製車であれば車体を塗装しなおさなけばなりませんが、ステンレス鋼であればその必要はないので、これにかかるコストも削減しました。
この7000系を進化させた8000系では、さらなるコストの削減をしていきます。車体構造は7000系と変わらぬオールステンレスとしたものの、増加する輸送量に対応するために20m級の大型車として設計されました。また、制御方式は7000系の抵抗制御に対して、パワーエレクトロニクスの発達によって実現した界磁チョッパ制御とし、主電動機も複巻整流子電動機を装備して経済性を高めました。もちろん、電力回生ブレーキを使用することが可能なので、車体が大型になって重量が増加したものの、トータルでの消費電力を抑えることを実現しました。
一方で、車体デザインや内装については、徹底的なコスト削減を狙いました。当時の東急電鉄の経営陣は徹底的なコスト削減主義で、よく言えば実用本位といえるものでした。
7000系を嚆矢とする東急電鉄のオールステンレス車は、1960年代末になって20m級の大型車体をもつ8000系へと進化した。界磁チョッパ制御と複巻電動機、ワンハンドルマスコンの採用など新機軸をふんだんに盛り込んだ一方、車体デザインや内装は実用本位で極力製造コストを軽減させた車両だった。(東急8000系8004F 二子玉川駅 筆者撮影)
前面は貫通扉を備えた切妻で、前面窓下には前部標識灯と後部標識灯と左右それぞれに縦に配置し、行先表示幕窓は貫通扉上部の幕板部に設置しました。それ以外の装飾はなく、全体としてこれといって特徴のないもので、列車の運行に必要不可欠なもの以外はまったくない、直線的なデザインです。
客室内もまた、実用本位でした。
扉間には8人がけのロングシートを設置し、扉部の座席仕切りは金属パイプを溶接した構造で、国鉄の通勤形電車に通じるデザインです。その延長線上に網棚が座席上に設けられていましたが、金属の金網を用いるなど、他の鉄道事業者とほぼ同じ仕様のものを多用し、製造コストを抑えていました。加えて天井部には扇風機が設置され、非冷房時代はベンチレーターもありました。
8000系は冷房化を前提に設計されていましたが、天井部は特にダクトや装飾などはなく、外観からもわかる曲線を持つ深いものでした。これは、冷房化に際してもコスト軽減を目論んでいたようで、国鉄が通勤形電車に採用した集中式ではなく、客車や特急形電車のように分散式を設置することで、屋根構造も一定程度の強度をもたせれば十分で、ダクトなどの追設をしなくとも冷房化ができるようにしたのです。また、非冷房で登場した車両には、当初はベンチレーターが設置されていましたが、冷房化を施工するときにはこのベンチレーター部に冷房装置を設置するように考慮されており、改造にかかる工数と日数、そして改造費用を大幅に軽減させたのでした。
このように、徹底的なまでに実用本位でコストを削減した8000系は、当時の東横線の主力であった7000系や7200系を順次置き換えて、日比谷線直通列車以外はすべて8000系による運転にまでなるなど、名実共に東急電鉄の主力にまで成長したのです。
その8000系ですが、筆者も随分と乗りました。
高校時代は東横線沿線にある学校に通っていたので、ほぼ毎日のように乗っていました。ただ、中間車は空気ばね式の台車を装着していたので乗り心地は国鉄103系や113系よりもよかったのですが、先頭者であるクハ8000だけは、どうにもゴツゴツとした乗り心地であまり好きにはなれませんでした。
これは、中間車であるデハ8100やデハ8200は、枕ばねに空気ばねを採用し、軸箱支持はペデスタル式でコイルばねを用いたTS807を装着していたのに対し、クハ8000は台車の軽量化とメンテナンスフリーを目指したPIII-708を装着していました。この台車は、いわゆる「1自由度系台車」とよばれるもので、枕ばねこそダイレクトマウント空気ばねを装備していますが、軸箱支持は軸箱と側梁が一体にとなった軸箱梁式で、防振ゴムで支持するなど、従来の台車に比べてシンプルな構造でした。
軽量化とメンテナンス性の向上が期待できる構造ですが、軸箱梁式は車輪が受ける軌道からの衝撃をダイレクトに側梁に伝え、枕ばねに空気ばねを用いても、その衝撃を吸収するには十分とはいえませんでした。PⅢ-708はこうした構造と特性をもつため、クハ8000の乗り心地は軌道の状態に左右されやすかったのです。そのため、分岐器を通過するときはもちろん、軌道の僅かな歪みがあるとまともに影響を受けていたのです。
そんな8000系ですが、オールステンレス車という特性を十分に発揮し、製造から30年以上の長きに渡って、東急線で多くの利用者を運び続けました。
先ほどお話したクハ8000も、後年は中間車と同系のTS815に履き替えたことで走行特性も変わり、乗り心地の面で改善されました。また、主として運用に就いていた東横線も、輸送力の増強と2004年から実施されるみなとみらい線への直つ運転に備えて、保安装置をATSからATC-Pへと更新され、運転台の機器も製造時のものからATC-Pに対応した機器へと交換され、運転台の高さも従来よりも高くなりました。
また、一部の車両は更新工事が施され、座席のモケットがオレンジとブラウンの2色に分けられるなど変化しました。特に初期に製造された車両は座席を4人と3人に分けて定員を明確化し、その境目にはスタンションポールが設置され、9000系に近い内装になりました。
しかし後継となる5050系の増備が進むと、後から製造された9000系ともども追われるようになり、9000系は大井町線へ転属していきましたが、製造から年数が経っている8000系は運用から退き廃車が始まりました。
《次回へつづく》