旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

過酷な通勤輸送を支え続け40年の功労車・東急8500系【8】最終章

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《前回からのつづき》

 現役として残った8500系は、もっとも古い8606Fの製造が1975年であり、車齢は45年を超えていました。オールステンレス車の耐久性は、7000系が7700系に改造する際に荷重試験をしたところ、50年以上が経っていても新製時と比べて強度の低下が見られなかった結果から、耐久性に優れたものであるといえます。車体や台枠はオールステンレスで車齢にかかわらず頑丈であっても、電装品についてはやはり老朽化は免れませんでした。特にVVVFインバータ制御と三相交流かご形誘導電動機の組み合わせが一般的になった2000年代以降、8500系が装備していた界磁チョッパ制御と直流複巻電動機はすでに古い技術であり、老朽化と交換部品の枯渇は避けて通れないものでした。また、構造設計が古いため、車体重量は今日製造されているオールステンレス車と比べて車両重量が重く、電力消費量と軌道への負担も大きいものでした。

 

(7700系・7963F 雪谷大塚-久が原 2018年8月16日 筆者撮影)

 

 2018年になると、老兵である8500系の置き換えが再開されることになります。5000系の増備ではなく、新たに設計された2020系がこの年に登場しました。2020系はレーザー溶接を積極的に採用した新たな軽量ステンレス車体で、従来の軽量ステンレス車にあったステンレス板の継ぎ目がない、滑らかな車体外板をもっていました。この継ぎ目がないことで、2020系はアルミ車並みの自重に抑えることができました。

 2020系の増備は、2018年と2019年にそれぞれ6編成、2020年には5編成、2021年には9編成も製造され、2022年に最後の1編成が製造されたことで、8500系はわずか5年の間に30編成300両がすべて置き換えられてしまいました。最近の新車製造と置き換えのはやさは、量産効果による製造コストの軽減を目論んでのことですが、老朽化も同時進行で進んでいきことや、代替の時期が集中しやすくなるなどといった課題があるのも事実です。しかし、あれほどまでに田園都市線の主として10両編成50本、合計500両もの勢力を誇った8500系の引退は、僅か5年の短時間で達成されてしまったことは、意外にも呆気のないものであり、特筆するべきことでしょう。

 8500系の中で、最後まで残ったのは青帯を巻いた8637Fでした。2022年度に入り、2020掲載後の増備車である2150Fが落成して運用に入るまでの間、孤軍奮闘しながら田園都市線の通勤通学輸送を中心に、最後まで走り続けました。しかし最晩年は、かつての「痛勤」と揶揄されるほどの混雑はなくなり、混んでいるものの新聞を読むことができる程度までになっていました。それは、新型コロナウイルスによる社会情勢の変化、特に田園都市線はその変化が大きく現れ、かつて当たり前に見られた、沿線に住む大勢の人々が都心へ向かう光景は過去のものとなり、そのような環境が激変した中での最後の走りだったのです。

 2023年1月、東急電鉄が予告したとおりに、8637Fは最終運用を終えて37年の歴史に幕を閉じました。同時に8500系そのものが48年に渡る歴史にピリオドを打った瞬間でもあったのです。

 それとともに、電動車比率の高い8500系が高速で走るために、モーターの爆音を轟かせたあの音や、加速するときや減速するときに、界磁チョッパと複巻電動機の独特の甲高いモーター音も過去のものとなり、沿線の音の景色も一変しました。

 8000系の一員でありながらも、新玉川線半蔵門線という地下路線へ対応するため改良を加えた系列であり、押し寄せる多製の乗客を捌くために10両編成という私鉄でも珍しい長大編成を組んだことで、その製造数は420両にも及ぶという東急の中でも最大勢力を誇り、いわば「標準車」ともいっても差し支えのない存在でした。

 そして、21世紀に入ると田園都市線8500系を取り巻く環境は大きく変化し、遠く埼玉県にも日常的に顔を出すようになり、田園都市線沿線だけでなく、東武伊勢崎線日光線沿線の人にとっても馴染みのある車両になったと考えられます。

 過酷ともいわれた田園都市線の通勤通学輸送は、今日では様々な要因で緩和されました。しかし、高度経済成長期が終わり安定経済気に入った頃、田園都市線の開通と沿線の開発、そして都心部へ乗り入れる鉄道として人気を集めたことから、人口が増加していったことは東急にとって目論見通りだったといえます。そして、その重要な「顧客」の輸送を、8500系は一手に引き受けて黙々とその役割を担い続けました。それは、界磁チョッパ制御を採用して省エネルギー性に優れていたこと、そして出力130kWの強力な主電動機を装備したことで、このような過酷な運用にも耐えられたのでしょう。実際、筆者は鷺沼近傍の職場に勤めていたとき、時折田園都市線にのることがありましたが、急行に乗車すると起伏の多い線形をものともしない力強さ、そして独特のモーター音の響きは、どこか頼もしさを感じたものであり、今日の『軽量』な車両たちには真似ができないものだったといえます。

 いずれにしても、長年に渡って過酷な輸送を担い続け、多くの人々の生活を支え、ひいては経済活動をも支えてきた功績は非常に大きいものでしょう。8500系東急線上からは姿を消していき、いまや鉄道史の1ページになろうとしています。しかし、人々の記憶には「お世話になった電車」として残るとともに、伊豆急秩父鉄道長野電鉄に渡った譲渡車たちが、その功績を後世に末永く語り続けていくことを願ってやみません。

 

二子玉川二子新地間の二子橋梁を渡る8500系8613F。撮影当時、大井町線はまだ二子玉川で折り返していたため、橋梁上に引上線が設けられていた。引上線には同じファミリーでもある大井町線の8000系が待機しているのが見える。どちらも改良前の設計で、幕板と屋根のところに角がある。こうして並べてみると、前面のデザインが異なる以外は同じ系列だとわかる。8000系、8500系ともに東急の主力車両として一時代を築いたが、技術の進歩によってより効率が高い後継車両に後を託して去って行った。(8500系・8613F、8000系8001F 二子玉川 2004年頃 筆者撮影)

 

 今回は筆者にとって、思い入れのある車両だっただけに長文になってしまいました。最後までお読みいただき、ありがとうございました。(了)

 

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