旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 随一の「強運」持ち主 半世紀近くを走り続ける東急8000系〔1〕

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 いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。

 いまから30年以上も前のことですが、高校時代は東横線を使って通学していました。当時、公立の普通科高校は学区が定められていて、よほど特別な事情がある場合を除いて、越境をすることができませんでした。もしも普通科高校に通うことになっていたら、市街へ出ることはなかったでしょう。

 しかし、筆者は工業科に進んだおかげで、公立高校ではあったものの、隣の横浜市へ通うことができました。そのため、3年間は毎日、東横線に乗ることになったのです。

 1988年頃、東横線の主力は8000系でした。8000系と一口にいっても、広義には基本となる8000系の他に、田園都市線用に改良された8500系東横線の急行用に軽量車体構造になった8090系がありました。

 東横線で最大勢力を誇ったのは8000系で、次いで8090系日比谷線直通用の7000系と、増備の真っ只中だった9000系、そして僅かな8500系といった陣容だったのです。ですから、駅で列車を待っていると大抵は8000系で、9000系が来れば運がよく、8500系に乗ることができれば「ツキがいい」などと勝手に思っていたほど、ポピュラーな電車だったのです。

 

雨の多摩川園駅を渋谷に向けて発車していく、東急8000系8039F8連。既に冷房化は終えているようだが、夏季もそれほど気温が高くなかったことと、当時は冷房そのものが「贅沢なもの」という認識もあって、規定の気温にならなければ冷房装置を使うことはなかった。そのため、客室の窓は開けられていて、外気を取り入れて車内を冷やしていた。前面には赤帯はなく、運転台もオリジナルの低いものであったため、窓にはその姿が見えない。写真では見づらいが、台車もP-Ⅲ708を装着していた。(8000系8039F×8連 多摩川園駅(当時) 1984年頃 筆者撮影)

 

 1988年当時の8000系は、登場時から大きく変わっていませんでした。運転台はT字型ワンハンドルマスコンでしたが、その高さは低く、保安装置も軌道電流式ATSでした。このATSは国鉄・JRにおけるATS-Bに相当するものですが、ATS-Bとの違いは速度照査機能があり、制限速度を超えると非常ブレーキが作動する点でした。また、運転台は低運転台で、コンソールも窓の高さに合わせてあり、地色も黒色であるなどの点で異なっていました。

 また、先頭車となるクハ8000が装着する台車も、登場時のままである一自由度系台車であるパイオニアⅢシリーズであるP-Ⅲ708(TS-708)でした。7000系の登場時から受け継がれたこの台車は、軸箱支持を台車枠にほぼ直接負担させるなど、メンテナンスフリー化をねらった構造でした。

 電動車の台車は軸箱支持をペデスタル式としたTS-807とされました。これは、パイオニアⅢシリーズの乗り心地に難があること、高速走行時に蛇行動が発生しやすいなど、メンテナンス面で省力化可能というメリット以上に、課題が大きかったと考えられます。

 実際に、PⅢ-708を装着したクハ8000と、TS-815を装着したクハ8090に続けて乗り継ぐ機会が何度もありましたが、確かにPⅢ-708は、軌条頭面にある僅かな凹凸を拾う家のようなゴツゴツとした硬い乗り心地で、TS-815の滑らかさには遠く及ばないものを感じました。

 この差はやはり、軸箱支持にあると考えられました。PⅢ-708の枕ばねには空気ばねを装着していた点では、TS-815と同じでした。しかし軸箱支持は、TS-815はペデスタル式として金属コイルばねを軸ばねに使っていました。一方で、PⅢ-708は軸箱は側梁に固定されています。振動を吸収するためにリング状の防振ゴムをかましていますが、輪軸を通して伝わる軌道や軌条の振動を吸収するには十分とは言えませんでした。そもそも、防振ゴム自体に大きな振動を吸収するには不十分であり、TS-815と比べてPⅢ-708の乗り心地が硬く感じるのは当然のことでした。

 この当時の8000系は、外観も登場時とほぼ変わりませんでした。一部の車両は製造時から自動方向幕を備えていましたが、手動式方向幕のままの車両も存在しました。また、側面の行先表示器も改造により自動方向幕が設置されたものもありましたが、これらは横幅が狭いものでした。中には未改造の車両もあり、急行と快速の種別を表示する行灯式表示器のままで、各停運用の時には何も表示しない車両もみかけました。

 登場時は車体全体は無塗装でした。いえ、8000系は東急のお家芸となったオールステンレス車なので、車体を塗装する必要はなく、軽量化のために車体外板を薄くしたため、補強用に取り付けられたコルゲート板が、ステンレス特有の輝きを放っていました。

 前面もまた、登場時からしばらく無塗装のままでした。急行運用の時には前面窓上に設置された通過標識灯を点灯させ、車掌台側の窓下には赤色の急行を示すサボが取り付けられていた程度で、それも8090系が登場すると急行運用もなくなり、もっぱら各停でのみに使われていました。

 1枚目の写真は1984年に多摩川園駅(現在の多摩川駅)で、渋谷へ向けて発車していく8039Fを後追いで捉えたものです。8039Fは1973年に製造された第4次車で、それから11年しか経っていなかったので、ほぼ登場時のまま無塗装であったことを示しています。行先表示幕には黒字に白文字で「渋谷」と書かれていることから、登場時の白地黒文字の手動式から自動式に替えられていることもわかります。

 8039Fはこの頃には冷房装置が搭載されていたと思われます。8039Fを含む第4次車は冷房準備工事車として落成していたため、それを搭載する位置には開口部が設けられ、キセも装着されていました。1970年代半ばには早くも冷房装置を搭載する工事を受けているので、1984年当時は冷房化がされていたと考えるのが妥当でしょう。

 ところが、側面の客室窓を見ると開けられているのが分かります。車掌が着用する制服はライトブルーの半袖であることから、夏季の撮影であることが分かりますが、冷房化されていて窓が開いているのはなんとも不思議な感じがするかもしれません。

 1980年代は今日のように夏でも気温は30℃に届くか届かないかの日が多く、30℃を超える日のほうが珍しいくらいでした。また、この時代は冷房自体が珍しいもので、それを使うこと自体に慎重さが求められていました。そのため、少し暑いと感じる日でも、基準の気温に達しなければ冷房装置を使うことを制限され、このように夏でも窓を開けることが多かったのです。今日のように、初夏から気温が異常に高くなり、窓が開かない構造の車両も増えたため、少々暑くてもすぐに冷房装置を使うのとは対照的でした。

 2枚めの写真は、それから20年後の2004年に撮影したものです。製造から20年以上が経っていたため、多くの8000系は更新改造が施されていました。中には赤帯に前面の貫通扉の部分を黒色にされたいわゆる「歌舞伎塗装」と呼ばれる改造を受けたものもありました。

 8039Fはそうした更新改造を受けることはありませんでした。ご覧のように、前面には警戒色となる赤帯を窓下に入れただけで、あとは登場時と変わりません。

 この赤帯は1980年代後半に入った頃から、東急の電車に入れられるようになりました。恐らくは、東急の電車は目蒲線と池上線、そして大井町線で運用されている3000系や5000系のほかは、すべてオールステンレス車であり、塗装されれずにステンレス鋼の地色そのままであったため、保線や電気設備関係の係員が線路内で作業をしているときに、ステンレス地のままだと遠くから列車を視認することが難しかったためではないかと考えられます。

 かつて、国鉄が無塗装による省力化と、車体重量の軽量化を目論んでセミステンレス車を試作しました。キハ35系のキハ30 900番代と、153系のサロ153 900番代を製作し、営業運転に充てました。

 しかし実際に運用をしてみると、制動時に制輪子から飛び散る金属粉が車体に付着し、車体清掃の手間が増えてしまいました。

 制輪子は鋳鉄鋼やレジン、焼結合金の3種類ですが、鋳鉄鋼と焼結合金は金属をを使っているため、ブレーキを聞かせたときに金属粉が飛び散ります。また、レジンは合成樹脂を主材料にしていますが、それだけではなく、金属粉を混入させているため、やはり金属粉を飛び散らせます。いずれにしても、これらの金属粉は車体などに付着し、時間が経つと異なる金属同士の電気イオンの関係から、結合と腐食を招き、軽く水洗いした程度では落ちなくなり、悪いことには腐食により錆を発生させてしまうのです。そのため、車体外板に腐食しにくいステンレス鋼を使っていても、これら付着した金属粉による汚れが目立つようになり、結局はステンレス鋼特有の輝きを失い、錆色の目立つ汚れたみすぼらしい車体になってしまったため、キハ30 900番代では朱色5号一色に、サロ153 900番代では湘南色に塗装されてしまいました。

 また、キハ30 900番代は、製造当初は房総半島で運用されました。房総半島は、季節により濃霧が発生しやすい環境です。白く立ち込める霧の中を、ステンレス鋼の銀色の車体では遠くから視認しにくく、特に線路内に立ち入って作業をする保線区や信号通信区の職員からは不評だったことも、早期に塗装されることに繋がった要因の一つになりました。

 翻って、東急電鉄でも同様の指摘があったのは、容易に想像がつくところでしょう。

 当時、田園都市線で運用されていた8500系には、前面にアクセントとなる赤帯を巻いていました。また、赤色は東急電鉄のコーポレートカラーでもあることから、8000系を始めとする在来のステンレス車にも、赤帯を入れるようになりました。

 

《次回へつづく》

 

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