旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

赤帯からハワイアンブルーへ 伊豆へ渡ったオールステンレスカー8000系【2】

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《前回のつづきから》

 

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 東急(ここでは分社化前の「東急電鉄」ではなく、それ以前の「東京急行電鉄」、今日の「東急」を指します)はグループ企業の中に、鉄道事業を営む会社があります。

 その一つに、静岡県の東伊豆沿岸を走る伊豆急行があります。

 伊豆急行は、東急が国鉄伊東駅を起点に、下田市との間を結ぶ地方鉄道敷設の免許を申請したことから始まりました。当時、東急は伊豆半島の開発に熱心で、競合する西武鉄道とその主導権を争う「伊豆戦争」の真っ只中でした。

 この「伊豆戦争」は、戦前から続いていた「箱根山戦争」の延長線上にあると考えられるもので、東急の創業者である五島慶太と、西武鉄道の創業者である堤康次郎の二人による縄張り争いでした。

 その最中に、国鉄伊東線を建設・開業させましたが、本来は東伊豆沿岸を下田方面まで結ぶ鉄道線として計画されたものの、戦後の緊縮財政によって伊東までで打ち切られました。

 当然、伊東以南、下田までの間は鉄道空白地帯となり、地元では鉄道の開通を望んでいました。そんなとき、両者はこのことに目をつけて、鉄道敷設免許を申請しますが、結果として東急が免許の交付を受けて鉄道を建設しました。これが、今日の伊豆急行です。

 伊豆急行伊東線伊東駅から下田市にある伊豆急下田駅までの間を結ぶ伊豆急行線を運行しています。開業当初は100系と呼ばれる濃淡ブルーの塗装を身にまとい、観光地の鉄道らしく片側2ドアのセミクロスシートの電車を運用していました。

 後に観光地を走る鉄道でのサービス向上を目指し、海側と山側の座席が異なる2100系を新製しました。しかし、海岸沿いを走ることから、塩害による老朽化がほかの鉄道事業者よりも早く、普通鋼製の100系は製造から20年近くが経った頃からそれが目立ち始めてしまいます。

 伊豆急としては、この老朽化が進んだ車両を更新したいと考えましたが、思うようにはいきませんでした。というのも、100系伊豆急行線の開業時に用意された車両で、すべてが新製車でした。これは、伊豆急行線を建設し、その運営会社として伊豆急行を設立した親会社である東急の後押しがあったからだと考えられます。すでにお話した「伊豆戦争」の真っ只中にあって、東伊豆の各地には東急系列の観光施設があり、その観光輸送を担う伊豆急行線には、新車を投入して誘客をしようという意図があったといえます。

 

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伊豆急行が開業時に用意した100系電車は、主として観光輸送を担うことから固定式クロスシートを備え、乗降用扉は2箇所という国鉄の急行形電車に近い設計だった。国鉄伊東線への乗り入れも考慮されていたため、20m級の大型車体となったが一方で軽量化も図られていた。1961年に運用が始められて以来、長きにわたって伊豆急行の主役として走り続けてきたが、1990年代に入ると車齢が30年を超えたことや、海岸沿いを走るという路線の特性から潮風にさらされ塩害による老朽化も進んだことから置き換えが検討されるようになった。後継として2100系も製造されたが、バブル崩壊による社会情勢の影響もあってこちらは100系の後継とはなり得ず、結局、2001年にJR東日本から譲受した200系を導入するまで40年以上も運用された。(クモハ130 熱海駅 1985年8月13日 筆者撮影)

 

 しかし、実際には開業時に用意した車両だけでは旺盛な需要に対応できず、親会社から古びたデハ3400などを伊豆急塗装に塗り替えて貸出をしたり、同じ東急グループである東急車輛で製造されたばかりの7000系や7200系を、本来の発注元である東急には輸送せず、伊豆急へ貸し出して輸送力の補強に充てたほどでした。このことは、東伊豆を始め伊豆半島での観光事業に、東急が相当入れ込んでいたことの表れで、その中核を担う伊豆急への支援もかなりのものだったといえるでしょう。

 しかし、伊豆急が老朽化した100系の代替を計画したのは1990年代はじめで、バブル経済の崩壊とレジャーの多様化によって、以前ほどの輸送量はありませんでした。また、経済の悪化は親会社である東急も直撃し、グループの肥大化とそれによる収益の悪化、そして有利子債の増大、加えて東急の創業家出身の社長である五島昇氏の死去は、東急が子会社である伊豆急へ資本を投じてまで新車を導入する体力も機運も失っていました。

 そのため、100系の代替には伊豆急が自力で行わなければならないため、新製車両で代替えすることは困難でした。

 そこで、伊豆急が目をつけたのが、ステンレス鋼でつくられた親会社である東急で運用されていた8000系でした。オールステンレス車である8000系なら、東伊豆の沿岸を走るために生じる塩害にも耐えられることから、中古車両として導入してもある程度長期に渡って運用することが可能であると考えられたといえます。また、車体の修繕や塗装も鋼製車とは異なりステンレス鋼なら簡略化あるいは省略できること、鋼製車に比べて軽量になるため軌道への負担も軽減できることなどから、運用コストの軽減が期待できたのです。

 伊豆急は親会社である東急へ8000系の譲渡を打診しました。

 ところが、会社設立時には全面的に支援してくれた東急も、このときばかりは色好い返事をしませんでした。

 

早朝の南伊東駅を発車し、伊豆急下田へ向けて走り出す伊豆急行8000系電車伊豆急行は老朽化が進んだ100系電車の光景として、オールステンレス車で親会社である東急が運行する8000系電車を望んだが、1990年代後半の時点ではまだ「一線級」の車両だったため実現することはなかった。8000系の譲渡が実現したのは、それから5年以上待つことになる。(南伊東-川奈 2021年11月23日 筆者撮影)

 

《次回へつづく》

 

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