旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

「懐かしの東急8000系ツアー」を満喫 若かりし頃の思い出にも浸って【3】

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《前回からのつづき》

 

blog.railroad-traveler.info

 

初期のオールステンレス車は、コルゲート板と呼ばれる波状の板を重ね付けすることで、強度を保つようになっていました。筆者の年代で、オールステンレス車といえばこのコルゲート版のある車体が当たり前でしたが、その数も随分と減ってきました。

 

伊豆急8000系の車内は、譲渡の際に海側の座席をクロスシートに交換しましたが、山側の座席は東急時代のままになっていました。この座席を見て、高校時代に通学で乗ったときのことを思いを馳せてしまい、己の齢を突きつけられました。

 

二酸化炭素や使用電力の削減の観点から、近年の車両にはLED照明が多く使われるようになりましたが、8000系は変わらず蛍光灯のまま。LEDにはない、温かみのある光と、蛍光灯一本一本で微妙に明るさが異なるあたりが、昭和の時代を思い起こさせてくれました。

 

 

乗車したクハ8007(東急時代はクハ8016)の製造は昭和45年(1970年)。筆者よりもわずかに歳が上で、すでに新製から53年も走り続けている鉄道車両のレジェンドです。伊豆急への譲渡に際して、改造は東横車輌電設で行われていますが、この会社も社名を変えているので過去のものです。

 

鉄道車両の冷房装置の設置方法は様々ですが、8000系は改造工程を減らしコストを抑えつつ、冷房効果を確保するというコストに敏感な私鉄らしい、分散式冷房装置と扇風機を併用していました。天井の形状=屋根の形状なので、車体の断面形状がよくわかるとともに、天井部には冷風ダクトなどといった設備が一切ないので、メンテナンス性にも優れたものだと改めて気付かされました。

 

齢50年以上ともなると、老朽化が気になるところですが、オールステンレス車は車体外板は新製時からほとんど劣化することがないので気づきにくいものです。しかし、屋根部は長年、風雨にさらされ太陽光を浴び続けたため、劣化が少しずつ進んでいたように感じます。

 

やはり、屋根部の劣化が気になったので、階段からこのショットを捉えてみました。特にパンタグラフ部は、トロリー線を摺動するたびに銅を含んだ金属粉が撒き散り、同時に東伊豆沿岸という地理的条件から塩分を含んだ風にもさらされるようになり、汚れや痛みが進んでいるようにも思えました。

 

伊豆急行8000系の運転台は、一見すると東急時代のものと同じように見えますが、細かいところが異なっていました。東急時代は車内信号機付速度計と、ブレーキ圧力計、そして電流計だけで、あとは様々な表示灯が設置されていました。伊豆急行へ移籍時に、電圧計なども設置され、列車無線のハンドセットもコンソールに取り付けられました。そして、コンソール上の右側には、列車防護無線も設置されるなど、JR伊東線へ乗り入れるための機器も増設されていました。とはいえ、T字型ワンハンドルマスコンは健在で、これをJRの運転士が操作するなど昔は夢にも思わなかったことです。

 

観光路線であることや、距離はそれほど長くないものの、所要時間が長くなることなどから、車内にはトレイが増設されました。貫通路は広幅ですが、車椅子対応の広いトイレとしたため、通路が少し狭くなっています。それにしても、不自然にならないように巧く設置されていました。

 

コルゲート板があるステンレス車体、ドア横には所有する伊豆急行の社紋が設置されています。東急グループの一員であるので、東急の統一デザインの社紋です。でも、これだけ見ると東急時代に撮影したといっても不自然ではないかもしれません。

 

ご覧の通り英文社名は「IZUKYU CORPORATION」と書かれ、社紋の色も東急時代の赤ではなく、交通事業を営むグループ企業を示すオレンジ色です。ステンレス板にエッチング処理をして社紋を描き、あとからペイントしたものをリベットで車体に取り付ける方法は東急時代と代わりませんでした。

 

ツアーの最後となる上り列車が伊豆高原駅へ到着すると、下り伊豆急下田行きの列車とピッタリと並びました。同じ出自、同じ形状の車両ですが、塗装が違うと印象も異なります。

 

伊豆急に移ってからは、先頭車同士を連結した編成をみることができます。東急時代は中間に先頭車同士を連結しない貫通編成が原則でしたが、伊豆急に移ってからは少単位編成を増結して乗客の増減に対応しています。このように、4両の先頭車が顔を突き合わせた姿は、ここならではかもしれません。

 

かつて、東横線で活躍していた頃の8000系。この歌舞伎塗装が姿を表したとき、筆者はあまりにも奇抜な塗り分けに思わず渋面してしまったほどでした。何度も見たり乗ったりしているうちに慣れましたが、今となってはとても貴重だったといえます。

 

帰りに乗車したのはTB-4編成。実は、往路も同じTB-4編成でした。熱海方先頭車のクモハ8254はクハ8000を制御電動車化した車両で、前面は東急時代と変わらず通過標識灯のあるオリジナルです。床下は電装品がぎっしりと取り付けられ、屋根上には前位側の冷房装置を撤去し、空いたスペースにシングルアームパンタグラフが増設されました。TB-4編成は帯の類いが一切なく、8000系の登場時を彷彿させる姿に、幼少の頃に踏切などから眺めていたことを思い起こさせてくれます。

 

親会社から子会社へと移っていった8000系は、活躍の場が都心の人口密集地域から、海岸に近い数多くの温泉を沿線に擁する観光地域と大きく変化しました。場所も乗せる人々も変わっても、地域の人々にとっては大切な交通機関であることは変わらず、多くの人たちを乗せて今も走り続けています。さすがに製造から50年以上も経ち、もしかしたらそろそろ限界に達してしまうかもしれません。界磁チョッパ制御と複巻電動機の独特の音は、若かりし頃を思い出させてくれるのに十分でしたが、東伊豆の海や街にその音を響かせながら今日も走っていることでしょう。

 

 最後に。

 伊豆急行は未就学児の参加者に、ちょっとしたプレゼントを用意されていました。娘はまだ5歳なので、なんと、伊豆急行のキャラクター「いずきゅん」をデザインしたお弁当箱をいただき、とても喜んでいました。

 小さい子どもをもつ親としては、とても嬉しいプレゼントでした。

 こうしたイベントを開催するために、数ヶ月前からさまざまな準備をされてきたことと思います。筆者も鉄道職員時代に、こうしたイベントの準備していた光景を見ていたので、その苦労は本当に頭の下がる思いです。

 イベントを開催した伊豆急行と、それを支えたスタッフの皆様、そして賛同した東急グループに心からの感謝を申し上げます。

 

 今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。