旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

1991年頃の新鶴見機関区 部内の一部で「恥ずかしいカマ」と呼ばれた試験塗装【1】

広告

 いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。

 1987年に国鉄が分割民営化されてから既に35年以上が経ち、2024年もかつての栄華を伝える国鉄形車両がまた姿を消していきました。曲線の多い路線で特急列車の速度を上げて、到達時間を大幅に短縮させた振り子式特急形電車である381系が、登場から52年という長寿を全うして引退していきました。鉄道車両としては類をみない50年以上という寿命の長さは、車両の構造が頑強で長期間に渡る運用に耐えるという国鉄形に共通するもので、国鉄技術陣による設計がいかに堅実であったかを証左しているといえます。

 そんな国鉄形車両も現役で残るのはわずかになってしまいましたが、貨物用機として最後の活躍をしているEF65形は、直流電機の決定版ともいえる存在で、地味な貨物列車から花形のブルートレインまで牽いた実績のある車両です。1965年から製造されたEF65形は、平坦線区で使うことを前提として設計製作されました。

 従来、電気機関車は主電動機から動輪軸に動力を伝える歯車の設定によって、低速ですが牽引力、すなわちトルク力のある貨物用機か、牽引力は小さくなるものの高速運転に適した旅客用機とつくり分けられていました。

 しかし、これでは機関車が必要になり、その製造コストはもちろんのこと、検査や修繕にかかる保守コストが多くかかります。また、用途によって車両を使い分けるということは、運用そのもの祖を切り離さなければならなくなり、同時に配置する機関区の数や留置する場所を確保するための土地も必要になるので、運用コストも増えてしまいます。

 これでは効率的な運用は難しくなり、ただでさえ財政面で問題の多かった国鉄にとって、車両運用の効率化は大きな課題でもあったのでした。そこで、貨物列車に必要な牽引力を確保しつつ、旅客列車に必要な高速性能をもった機関車を開発したのでした。

 EF65形は大きく分けて、貨物用機として割り切った装備をもった0番台と、連続した高速運転を要求されるブルートレインの先頭に立つことを前提とした500番台P形、大出力高速機であるEF66形が登場するまでのつなぎとして、重連で特急貨物列車を牽くための装備を持った500番台F形、そしてP形とF形の両方の装備を持って貨物列車からブルートレインまで牽くことができる万能機である1000番台PF形の4種類が製作され、全部で308両という、一形式では最も多くつくられた電機となりました。

 その万能機であるEF65形は、1987年の国鉄分割民営化で一部が旅客会社に継承されましたが、大多数が貨物会社に継承されました。旅客会社では寝台特急や夜行急行、そして工事臨時列車用として必要最小限の数が継承された一方、貨物列車を運行するためには機関車は欠かすことのできない存在であるため、貨物会社には199両というまとまった数が継承されたのでした。

 しかし、分割民営化直後には予想を超える需要があったことで、手持ちの車両では賄いきれなくなったことから、貨物列車の増発用として一度は廃車除籍されて、解体前提で国鉄清算事業団に継承された0番台のうち、状態の良い16両が整備の上で購入し、車籍を復活させて編入したことで、最終的には215両を保有したのでした。

 JR貨物保有した215両のEF65形は、民営化当初は当然ですが青15号とクリーム色の直流機標準色か直流機特急色を身にまとっていました。側面の中央部、ルーバー窓の間にあるナンバープレートの上部に、白文字でJRマークが貼り付けられていた以外は国鉄時代のままだったので、大きな変化もなく変わらず重量の重い貨物列車を牽いていたのでした。

 

EF65 9号機は、国鉄時代に一度廃車となり、1987年の国鉄分割民営化では国鉄清算事業団に継承され、解体処分を待つ身となった。しかし、1980年代終わり頃のバブル景気の中で、貨物輸送量の増大でトラックドライバが不足し、鉄道の利用が増えたことで列車の増発を迫られた結果、機関車不足を補うために清算事業団に継承された車両を購入し、車籍を復活させて運用に戻して戦力に加えた。この車籍復活機のうち、9号機は旅客会社に倣ってか、ぶどう色2号一色の茶色塗装、いわゆる「茶ガマ」として目立つ存在だった。(EF65 9【髙機】 新鶴見機関区 1991年頃 筆者撮影)

 

 筆者が貨物会社に入り、仕事として新鶴見機関区に出入りするようになったころも、機待線群のには、数多くのEF65形が留置されていたものでした。新鶴見配置の1000番台PF方はもちろん、高崎機関区配置の500番台、吹田機関区配置の0番台などなど、今となっては羨ましいくらいに集っていたのですが、何分、仕事で出入りしていたことと、あまりにも「当たり前」過ぎた光景だったことなどで、「ああ、今日もいるのね」ぐらいにしか見ていませんでした。

 もっとも、当時としては主力であり、当たり前に走っていたEF65形ですが、中には見かけると「おっ!」などと、思わず声を出してしまうほど気になる車両もいました。例えば、車籍復活機で最若番である2号機は、本来ならナンバーは切り抜き文字を直に貼り付けるのですが、車籍復活のときにブロックナンバープレートになっていました。理由は清算事業団に引き取られていたときに、ナンバー部分を削除したとか、切り抜き文字をどこかへやってしまったとかという話でしたが、実際のところ筆者にはわかりませんでした。

 「茶釜」と呼ばれた9号機は、往年の旧型電機を彷彿させるぶどう色2号一色に塗られた車両でした。JRマークも貼り付けられることなく、代わりに側面の下部に小さく「JR貨物」と白文字が入れられていましたg。また、21号機は車籍復活のときに後にJR貨物の新塗装となる塗装を身にまとい、飾帯を撤去した上でナンバーも運転席側窓下にオフセットされた、EF81形500番台などと同様のスタイルでした。

 そうした車両たちは、国鉄時代と装いが違っているとはいえ、どちらかというと「大人しめ」の出で立ちだったので、数多く留置しているEF65形の「群れ」から見抜くのは、ある意味では苦労もありましたが、筆者にとっては好感のもてる車両でした。

 

《次回へつづく》

 

あわせてお読みいただきたい

blog.railroad-traveler.info

blog.railroad-traveler.info

blog.railroad-traveler.info

blog.railroad-traveler.info

blog.railroad-traveler.info