◆門司機関区での添乗実習・・・日田彦山線のDD51【前編】
2回目の添乗実習はディーゼル機関車に乗務することになった。関東で生まれ育った私にとって、真っ赤な交流電機機関車だけでも珍しかったのに、ディーゼル機関車とはこれまたビックリだった。
日田彦山線の石原町駅は北九州市小倉南区にある駅だ。政令指定都市の中に非電化の路線があるのも珍しく思えたが、そんな中に石灰石の鉱山があるとはさらに驚かされたものだ。
そういえば、九州北部は石炭の炭鉱が数多くあったと聞いていた。その炭鉱で採掘された石炭を、全国へ輸送するために鉄道が網の目のように張り巡らされて、多くの貨物列車が走っていたという。もちろん、私が門司に赴任した1991年には九州北部の炭鉱もほぼすべてが閉山していたので、石炭を輸送する貨物列車はなかった。
だから日田彦山線の専用貨物列車の積荷は石炭ではなく石灰石だった。もっとも、石灰石輸送は私には別に珍しくもなかった。というのも、私の地元である南武線には、青梅線の奥多摩駅からやってくる石灰石列車が走っていたからだ。そうはいっても、九州で石灰石が採れることは初めて知った。
私が添乗した列車は、前回と同じく門司操車場からだった。黒崎駅から空になった車両を石原町駅へ返却するための「空返回送」と呼ばれる列車だ。「空返」とは、積荷を下ろした空の貨車を、再び貨物を積み込む駅へと返却するために回送する列車のことだ。そういったことも、鉄道マンにならなければ知らなかったことだ。何事も経験だなあ。
鹿児島本線東小倉駅から門司操車場方面を望む。現在は北九州貨物ターミナル駅に機能が移されたことで使用されなくなったが、1991年当時は写真中央に見える線路群から列車が発着していた。©PokePon(Wikimediaより)
さて、添乗実習の当日は晴れていた。7月に入っていたので季節はもう夏だったと思う。とにかく暑い日だった記憶はいまでもある。日陰のないだだっ広い操車場の着発線に、黒い貨車を従えた朱色の大型ディーゼル機関車DD51形が出発を待っていた。私は門司機関区から操車場構内をとぼとぼと歩いて、DD51形が待つ着発線へと向かった。
歩きながらこれから乗る列車を見ていると、なんと貨車はすべて黒色だった。
黒い貨車などしばらく見てなかったので、それはそれで懐かしくも新鮮だった。
旧国鉄時代に黒く塗られた貨車は五万といたが、民営化後に残った貨車は黒ではなく茶色に近いとび色や、新しく造られているコキ100系のように鮮やかな青色が多かったから、ある意味とても懐かしい感じがしたものだ。
まだまだこんな古い貨車が走っていたんだぁと、思わず感心してしまったが、歩きながらそれを見ているとさらに驚かされるものがあった。
連結されている貨車はホキ8500形式という、石灰石線用のホッパ車が多かった。これは、石原町駅の近くにある鉱山で石灰石を採掘している三菱マテリアルの私有貨車(JRが所有するのではなく、荷主が自らのニーズに合わせて製作して、車籍を国鉄→JRに置いて自らの貨物を輸送するためだけに運転される車両のこと)が多かったが、中にはセキ6000形式という貨車が混ざっていた。
ん?セキ??
鉄道マンになって会社が運用する機関車や貨車の形式を、仕事上で必要な知識として勉強しある程度勉強して頭の中に入れてはいた。が、さすがにこんな貨車が今でも走っていることにビックリ。
セキ6000形式は石炭車という貨車だ。その名の通り、石炭を運ぶために開発して製造された貨車。おいおい、いくら九州北部に炭田が豊富にあったからって今時掘っていないよ。まさか、石原町駅の近くで今も石炭を掘っているわけではないだろうに。
1991年は既に平成。石炭を運ぶための石炭車なる貨車が、石灰石を運ぶ貨車の中に混ざっていったい何を運んでいるのかと不思議に思ってしまった。その答えは石原町駅に着いて解けたのだが、
暑い中を汗ビッショリになりながらようやく先頭にいるDD51形の側へ来ると、夏の熱い太陽が照りつける中、出発時刻を待ちながら巨大な2基のディーゼルエンジンはアイドリング状態。もちろん、機関車の周りはエンジンから放たれる熱でさらに暑かった。