旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 日本の産業、そして生活を支えた石炭車・セキ6000【1】

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 いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。

 石炭といえば、かつては日本の産業、そして生活になくてはならない存在でした。船や機関車を動かす動力源のほとんどは石炭を燃料とした蒸気機関が使われていましたし、冬場には家屋などの暖房用の燃料も石炭でした。

 そういえば、昔の学校も暖房に使われていたストーブには、石炭を燃料としたダルマストーブが使われていたそうです。そして、冬になると日直にあたった子どもは、教室から専用のバケツ(プラスチックではなくブリキでできている)を持って構内にある燃料庫へいき、そこで用務員さんから石炭を詰めてもらって教室まで運ぶ役目があったとか。後に燃料が灯油に変わっても子どもたちがそれを教室に運ぶことは変わらず、かくいう筆者も小学生の頃に日直になると、燃料庫まで10リットルの灯油を取りに行った経験があります。(今では安全面などから考えられないことですが、昭和の当時はあたりまえにこうしたことをしていたのです。)

 さて、日本の主要な燃料が石油に取って代わられるよりも前のこと、その主力が石炭だった頃は、採炭地で産出される石炭を全国各地へと送り出すため、鉄道によって貨物として運ばれていました。そのために、国鉄では石炭を運ぶ専用の貨車として石炭車を用意しこれを運用していました。

 いまでいうところのタンク車と同じ役割ですが、大きな違いはタンク車のほとんどが石油会社やその傘下にある輸送会社が保有する私有貨車であることに対し、石炭車は国鉄が用意していました。そしてその構造も大きく異なり(当然ですが)、どちらかというとホッパ車と同じでした。ただ、ホッパ車と同じ構造ですが、ホッパ車が運ぶ砕石などと石炭の比重は異なり、砕石の1に対して石炭は0.9程度と大きさの割には軽いため、車体はホッパ車に比べて深めに作られ、容積自体は大きくなっています。そのために、側板は高くなっているので、車格の割には大きく感じるのです。

 その石炭車、国内での採炭事業が1970年代から縮小され、さらには1980年代に入ると相次ぐ大規模事故と採算性の悪さなどから単行自体の閉山が相次いでいたことで、鉄道による石炭輸送も急速に減少していきました。数多くの炭鉱があり、国内で生産される石炭の多くを占めた北海道や九州北部では、大小様々な石炭車が黒い石炭を載せて往来していましたが、それも時代とともに急速に姿をしていき、数多く運用された石炭車もその役目を失い、国鉄分割民営化までに大多数が廃車となっていきました。

 石炭輸送の衰退とともに、姿を消していった石炭車ですが、分割民営化後も一部の形式はある程度まとまった数でJR貨物に継承されました。といっても、石炭を運ぶという本来の役割を果たしていたのはごく僅かで、実際には石炭ではない物を運ぶために残されたのでした。

 筆者が貨物会社に入って九州で研修勤務に就く中で、鹿児島本線黒崎駅日田彦山線石原町駅の間を結んでいた貨物列車を牽くDD51に添乗したことがありました。この列車は石原町駅近くにある三菱マテリアル石灰石鉱山で採掘される石灰石を運んでいました。この列車に連結されていたのは、ホキ8500だけではなくなんと石炭車であるセキ6000だったのです。筆者は石炭輸送がほとんど廃止なり、石炭車という貨車も役目を失って姿を消したものと思い込んでいたので、まさか遠く1000km以上離れた西の地で未だ石炭車が活躍していることに驚いたものです。

 石炭車を見たのはこれだけに留まらず、同じ添乗勤務で門司駅から関門トンネルを越えて幡生操まで行くと、そこの留置線は1両か2両の黒い貨車が留置されていました。その黒い車体には半ば薄れてしまった黄色い帯が巻かれていて、関東ではほとんど見かけることのなかった形と、DD51の添乗で見たことがある石炭車とすぐに分かりました。

 本州に残っていた石炭車もまた、石炭ではなく石灰石輸送用に残っていたものでした。美祢線美祢駅宇部線宇部港駅間で運転される列車でも、この石炭車が使われていたのです。そして幡生操に留置されていたセキ6000も、この美祢線で運用されていた車両だったのです。

 

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セキ6657 2016年7月24日 三笠鉄道記念館(筆者撮影)

 

 さて、写真のセキ6000は、北海道三笠市にある三笠鉄道記念館で展示されているセキ6657です。セキ6000を実際に自分の目で見たのは、まだ入社したてで世間のこともわからないまま九州の地に赴いた19歳のとき以来、実に20数年ぶりのことでした。

 ご覧のように、無蓋ホッパ車と同じ構造ですが、側板がとても高く傍らに立つと威圧感みたいなものがありました。九州で見た車体には九州支社所属を表す「九」が、幡生操で見た車体には関西支社を表す「西」の標記が書かれていましたが、「西」はかつての東京西局の標記だったので、南武線を走った石灰石ホッパ車であるホキ2500を思い起こさせたものです。

 

《次回へつづく》

 

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