鉄道による貨物輸送で強いと言われたいわゆる「3セ」。石炭、石油、石灰石を指しますが、このうち石炭は鉄道開業以来、もっともポピュラーだった大量拠点間輸送の貨物でした。
戦前は国内にある炭鉱から産出された石炭を、貨物列車で運んで各地へと運んでいました。そのため、国鉄には「石炭車」という貨車もあったほどです。
石油資源に乏しい日本では、石炭が貴重ね燃料資源として使われていました。
しかし、石油の輸入が増加するにつれて、国内の石炭需要は低下していきました。石油と比べて燃焼効率が悪く、燃えた後には石炭ガラと呼ばれる廃棄物が発生し、燃焼時には煤煙と呼ばれるすすが出るので、石油に比べて扱いにくいものでした。
また、日本で採掘される石炭は、国外から輸入されるものに比べて質が低く、石油の輸入量の増加とともに需要も減り、九州や北海道に多くあった炭鉱は閉山していきました。そのため、石炭輸送も相次いで廃止されていきました。
ところが、1970年代に起きた「オイルショック」は、日本の経済活動に大きな影響をもたらします。セメント製造業界もまた、燃料となる石油の確保が困難になります。
そこで、産出国の情勢に左右されやすい石油ではなく、比較的安定した供給がのぞめる石炭へと回帰することになりました。
当然、国内産はほぼ皆無に等しいので、海外からの輸入に頼ることになります。しかし、セメントの製造工場は原料となる石灰石が採掘される地域の近くにあることが多いため、海外から運んでくる船が着く港からは遠いのが一般的です。
この燃料となる石炭を運ぶため、セメント業界と国鉄は、新たな石炭線用の貨車を開発しました。これが、ホキ10000です。
ところが、このホキ10000を開発したとき、ある一つの問題がありました。
石炭を運ぶための貨車は、「石炭車」に分類されるのです。しかし、当時の国鉄の規則では、石炭車の私有貨車は認められていなかったのです。これは、かつて石炭輸送の取扱量が多かった時代、需要の高い石炭車の私有を認めれば、所有する会社の石炭輸送にしか使えず、あちこちの駅に石炭車で溢れかえってしまい、運用効率が下がることを懸念したためと考えられます。
また、国鉄自ら利用頻度の高い石炭車を保有することで、石炭輸送を利用する荷主から貨車のレンタル料金も収入として得られることも、こうした規則が存在した遠因だったといえるでしょう。
ホキ10000を開発した1980年代に、こうした規則はそぐわないのですが、残念ながら規則としては生きていたので、この貨車を石炭車とすることはできませんでした。
そこで、その構造からホッパ車として分類することで、セメント会社が保有する私有貨車として製造を可能にしました。
さて、ホキ10000が登場したのは1980年でした。
物資別適合貨車としては最も遅く、既に国鉄の財政事情は危機的状況に陥り、貨物輸送に至っては燦々たる状況の中でした。こうした中でもこの貨車がつくられたのは、一定以上の需要があり、しかもセメントという建設物資にはなくてはならないものをつくるために、必要不可欠な燃料であることで、貨物輸送としては安定した運賃収入が得られることなどが、大きな理由だったと考えられます。
ホキ10000は翌1081年にかけて、272両がつくられました。
私有貨車なので、車籍は国鉄(→JR貨物)でしたが、所有は秩父セメントと電気化学工業でした。
秩父セメントが保有するホキ10000は、川崎市にある鶴見線扇町駅から埼玉県の秩父鉄道三ヶ尻駅までの間を走り続けます。扇町駅近くにある三井埠頭に陸揚げされた石炭を積んで、ほぼ毎日のように三ヶ尻駅にある秩父セメント熊谷工場へ運んでいました。
一方、電気化学工業が保有したホキ10000は、北陸本線青海駅から信越本線黒井駅までの間を、同じく石炭を運んでいました。
どちらも順調に石炭輸送という仕事をこなしていました。
しかし、電気化学工業が保有するホキ10000は、1996年に運用を失って全車が廃車という憂き目に遭います。製造・運用開始から20年足らずは、比較的短期間だったといえるでしょう。
もう一方の秩父セメント所有のホキ10000はというと、短命に終わることはありませんでした。ただ、バブル経済の崩壊によるセメント需要の落ち込みは如何ともし難く、業績の改善を目指して保有する秩父セメントは、小野田セメントと合併します。小野田セメントも石灰石を貨物列車で運んでいますが、石炭輸送をする貨物列車はありませんでした。
さらに、秩父小野田セメントは、旧浅野財閥系の日本セメントとも合併をし、今日の太平洋セメントへとなります。ホキ10000の持ち主は変遷が激しかったのですが、車両に書かれた表記と社紋は、太平洋セメントになって10年後くらいに、ようやく書き換えられたそうです。
ホキ10000の持ち主であり、石炭の荷主でもある太平洋セメント向けの石炭輸送は、2010年代に入っても健在でした。ダイヤ改正ごとに運転時刻の変動はあったにせよ、扇町-三ヶ尻間を1日1往復の運転は維持され続けます。
秩父セメントが保有したホキ10000の中には97両の車両たちが、遠く三重県にある三岐鉄道東藤原駅に常備駅を移しました。2000年から行われた中部国際空港建設に伴う土砂輸送に駆り出されたのです。
2002年に土砂輸送が終わると、東藤原駅にいた97両のうち30両だけが武州原谷駅に戻っていきました。残りはそのまま東藤原駅に居残りとなって、骨材輸送に活用されましたが、武州原谷駅に戻った30両は元の石炭輸送に活用されることなく、そのまま廃車という運命を辿っていきました。
運命とは本当にわからないものです。
東に西にと活躍したホキ10000ですが、1980年の製造から40年近くの月日が経つと、さすがに老朽化が進んでいき、一見するとそこまでとは感じないまでも、車両のあちこちに痛みが出始めていたのだと思います。
時代が進むにつれ、ホキ10000を取り巻く環境は変化していきます。特に、パワーエレクトロニクスの急速な発達は、鉄道にも高効率で高性能な電車を生み出すことになりました。
また、年々増加の一途を辿る旅客輸送に対応するため、旅客会社は電車の高性能化と増発によるスピードアップを目指してきました。国鉄時代は抵抗制御の115系が主役でしたが、軽量ステンレス構造の211系に代わり、さらに湘南新宿ラインの開業を契機に、高効率で脚の速いE213系が導入されました。
今日では、115系はもちろん、211系も追い遣ってE231系とE233系がその高性能を遺憾なく発揮して走る中、国鉄時代につくられたホキ10000の最高速度は75km/hが目いっぱい。貨物輸送の主役となったコンテナを運ぶ貨車は、110km/hでの運転が可能まコキ100系が登場したことによって、電車の速さと均衡が取れるよういなりましたが、75km/で走るホキ10000は、ダイヤ編成上のネックとなっていったと考えられるでしょう。これはあくまで推測なのですが、ダイヤの編成を担い、同時に多数の旅客列車を走らせるJR東日本から見れば、足の遅いホキ1000は厄介な存在でしかなかったでしょう。
あくまでも推測ですが、2020年は東京オリンピック・パラリンピックの開催が予定されていました。*1予想される外国人旅行客の増加に合わせ、夏季のダイヤはこれに対応するために多くの臨時列車の設定されていました。これらの列車を高頻度かつ高速で運転するために、速度の制限があるホキ10000で組成された貨物列車の運転を嫌ったと思われます。
車両自体も老朽化が進んでいたので、代替となる新形式の導入も考えられますが、オリンピック後に建設資材であるセメントの需要落ち込みも予想されることから、新形式導入によって生まれるコストと、鉄道特有の運用コストの削減をねらい、荷主でもある太平洋セメントは他の輸送手段*2を選択したのでしょう。
それはそれで、荷主の経営判断ですのでやむを得ないことです。
日本の鉄道貨物輸送の中で、もっとも長く、そして多く運ばれてきた石炭輸送は、この輸送をもってすべて終了することになりました。
それと同時に130年近くに及ぶ長い歴史ある石炭輸送の最後を担ったのは、国鉄時代最後に新製されたホッパ車であるホキ10000でした。そして、ホキ10000もまた、歴史の1ページの中の存在となっていき、後世に語りつがれる存在となっていくのだと思います。
長いお話となりましたが、最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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