《前回の続きから》
国鉄の貨物輸送高速化の切り札として登場した10000系高速貨車は、有蓋車ワキ10000、コンテナ車コキ10000、冷蔵車レサ10000で構成されました。空気ばねを採用したTR203を装着し、ブレーキには電磁弁式直通ブレーキを装備するなど、従来の貨車とは大きく異る構造でした。運転形態も、いくつもの操車場を経由していくのではなく、発駅と着駅が予め指定されていて、途中での連結開放をしない「拠点間直行」方式としたことで、所要時間を大幅に削減したのです。
このような画期的な運転形態で、しかもこうした運転形態に適合させた性能・設備をもった10000系でしたが、一方では最後尾に緩急車を連結し、車掌(列車掛)が乗務するなど変わらないこともありました。特に車掌が乗務するための緩急車は必須であり、レサ10000にはレムフ10000が、コキ10000にはコキフ10000がつくられていたので、これを連結すればよかったのです。
しかしながらこれにも問題がありました。
緩急車は最後尾に連結されなければなりません。これは、緩急車となるコキフやレムフを列車の両端に連結する必要があります。しかし、貨車の検査体制は旅客車と異なり、検査期限が近づいたら駅や操車場などで抜き取り、検査を施行できる近傍の貨車区や工場へ回送されていました。もちろん、予備の車両は用意されていましたが、中間に連結されるコキやレサとは違い、車両の数に限りがあったのでともすると予備がないという状態も予想されました。
加えて、乗務する車掌が後方監視ができるように、デッキ部を列車の両端になるように組成する必要がありました。これは、車両の運用に制限が加えられることを意味し、ただでさえ特急貨物列車(後の高速貨物列車)専用のために運用に成約があるので、余計に制約が課せられることになりました。
また、車掌が乗務するキャビンを設置するため、コキフであればコンテナを積載できる数が減り、レムフは貨物の積載量が減ってしまいました。さらにワキに至っては、緩急車が製造されなかったので、ワキだけで組成する列車には別に車掌車を連結しなければなりませんでした。
こうした制約が多く、積載量も減らさざるを得ない緩急車ではなく、一般の貨物列車と同様に高速運転が可能な車掌車を用意し、運用に柔軟性をもたせて積載量を確保することを目的に計画されたのが、最高運転速度が100km/hに対応できる車掌車であるヨ9000でした。
1968年につくられたヨ9000は、車体こそ当時製造されていた多くの車掌車とほぼ同じでした。両端にデッキを持ち、屋根はデッキ部まで張り出すというスタイルは、その車体の寸法からヨ6000に準じたものです。車内には車掌が執務するための椅子や机が備えられ、冬季には暖を取ることができるように石炭ストーブも設置されていました。ヨ6000と異なるのは、乗務する車掌が一人であることを想定していたのか、執務机と椅子は一人用のものが一組と、休憩に使っていたであろう長椅子も一人分の短いものだけでした。
そして、ヨ6000との決定的な違いは、トイレが設けられていたことでしょう。当時の貨物列車は操車場と貨物取扱駅の間を往来する「増解結列車」は運転距離が短く、しかも貨物取扱駅ごとにこまめに停車し、操車場間を結ぶ列車も大小問わず操車場ごとに停車するので、乗務する車掌もお腹を壊すなどよほどのことがない限りトイレに不自由することはありませんでした。
ところが、10000系高速貨車で運転される特急貨物列車は、操車場を経由することなく発駅と着駅をダイレクトに結ぶ「拠点間輸送方式」のため、一度走り出すと乗務員の交代などのために運転停車するほかは、ほとんど走りっぱなしになります。しかも、運転停車で乗務員が交代するのは機関士が多く、車掌は機関士と比べて交代はあっても乗務する距離は長くなります。そうなると、やはりトイレの問題が起きてしまいます。
そこで、10000系高速貨車の緩急車にはトイレが設置されていましたが、ヨ9000も特急貨物列車で使うことを前提としていたので、トイレが設けられたのでした。
走り装置は多くの車掌車が二段リンク式で、最高運転速度は85km/hでした。一般的な貨車が75km/hだったので、それに比べれば速く走ることができました。しかし、この走り装置で100km/hで走行すると、激しいピッチングや蛇行動など襲われ、最後は脱線してしまいます。そこで、国鉄はヨ9000には二段リンク式ではなく、東海道新幹線の0系に採用されたIS式軸箱支持に似た、1枚板バネの走り装置を開発しました。
高速で走る0系新幹線とほぼ同じ機構なら、貨車でも容易に高速化ができるだろうと目論んでの設計だったようですが、実際に試験走行をさせてみると、この1枚板バネ式は国鉄技術陣の期待とは裏腹に、芳しい結果が得られませんでした。しかも、試験走行の後は車体塗装を貨車の標準塗装である黒から、客車と同じ青15号に塗り替えられた上、最高運転速度を65km/hに制限されていることを示す黄色帯を巻かれ、特殊表記符号の「ロ」を追加されてしまうという、本来であれば特急貨物列車用として登場し、華々しく活躍するはずだったヨ9000にとっては屈辱的ともいえる処置でした。
福岡県で保存されているヨ9001。最晩年の姿で、有志の方たちの手により塗装の塗替えなど定期的に手入れがされていて、露天展示としては状態がいい。原型ともいえるヨ6000では、側窓が3つ並んでいるのに対してヨ9000は2つになり、代わりにトイレが設置されているため小窓が設けられている。走り装置も1軸ボギー台車に換装されている。(出典:Wikimedia Commons ©Muyo, CC BY-SA 3.0)
高速走行試験で結果が出せなかったヨ9000は、その後は香椎貨車区に配置されて、主に筑豊地区の石炭列車に限定されて運用されました。これは、石炭列車の主力であったセキ車の多くが65km/h限定の低速車で運用されていたため、同じく低速車指定を受けたヨ9000を限定して充てることで、車掌車を効率的に運用しようとしていたと推測されます。
こうして、本来の開発目的とはかけ離れた役目を担い、地味な運用をこなす日々が続きました。一方で、国鉄技術陣はヨ9000の高速走行を諦めたわけではなく、再びスポットライトを浴びる時がやってきました。
芳しい性能が出せなかった1枚板バネ式走り装置から、1軸ボギー式の試作台車であるTR903に換装し、再び高速走行試験に挑みました。さらにTR903は改造を受けてTR903Aとなり、所期の目的である110km/hでの走行に成功、10000系貨車と併結して特急貨物列車として運用可能な性能が確認されました。
この走行試験に成功したことで、黄色帯を巻かれ65km/hの低速車として指定されたヨ9000は面目躍如、量産に移行してコキフやレムフに代えて、特急貨物列車の殿を務めるかに思えましたが、現実はそうは甘くなく、走り装置を換装して高速走行は可能にはなったものの、結局は量産に移行することなく試作車の域を出ることはありませんでした。
背景には、10000系貨車の量産がほぼ終わっていたことと、空気ばね台車(TR203)や応荷重式電磁自動空気ブレーキ(CLE式ブレーキ)など高速走行に特化した特殊装備が多く、検修に手間がかかることから検修陣からは歓迎されなかったこと、さらに本来の性能を発揮するためにはEF66や高速列車牽引用装備を追設した機関車でなければならず、運用に柔軟性がないこと、加えて100km/hでの走行はできなくても特殊装備の必要もなく95km/hで走行できるコキ50000が登場したことなど、貨物輸送の状況が大きく変化したことが考えられます。
また、1970年代に入ると、国鉄の貨物輸送量は減少の一途をたどり、労使関係の極度の悪化からストが頻発したことにより、鉄道の優位性が失われ荷主離れが加速していたことで、すでに高速貨物列車用の車掌車を製造する意味が失われていたと考えられます。
こうして、高速走行が可能な性能をもつことができたものの、結局は量産には至らず、試作車であるヨ9000も黄色帯を外されることなく、65km/h限定のままにされてしまいました。そして、配置も香椎区から変わることなく、筑豊地区で産出される石炭を輸送する列車の殿を務め続けることになったのです。
こうして、国鉄の分割民営化まで地味な運用に終始したものの、炭鉱の相次ぐ閉山による輸送量が激減し、殿を務めるべき石炭列車も消えていき、貨物列車の合理化施策の一環として車掌車の連結廃止や、車掌乗務そのものが廃止されていく中、65km/hという枷を嵌められたにもかかわらず活躍し続けたことは、この車両にとっては幸運だったと言えるでしょう。
1987年にようやく廃車になり形式消滅し、2号車であるヨ9002は解体されてしまいましたが、初号車であるヨ9001は解体を免れて保存予定車として東小倉駅に収容されました。この保存はどういう目的であったかは不明ですが、同時期に貨物輸送に活躍した多くの貨車や機関車が、JR貨物に継承された駅や区所に保管されていたことや、筆者が貨物会社在籍中に博物館のような保存展示施設をつくるという話がまことしやかに噂されていたことを考えると、恐らくはそうした博物館のようなものを作って展示するつもりだったかもしれません。
しかしながら、民営化直後の貨物会社にはそのような体力はなく(財政基盤が強固で、資金も潤沢な東日本や東海ですら、自社の博物館設立は2000年代にまで待たねばならなかった)、毎年経常利益が赤字続きであったことを考慮すると、もしそうした施設をつくろうとしていたとしても、机上の空論で終わってしまったことはやむを得ないことでしょう。
国鉄から保存目的で継承した車両たちは、その構想を実現することなく、例えば新鶴見に留置されたDE11 2は、露天での保管だったため長年の風雪などにさらされ、最後は往時の姿が想像できないほどに朽ち果てた挙げ句に撤去解体されてしまいました。郡山貨物ターミナル駅に保管されていた多数の貨車たちも、結局は有志に引き取られて生き延びましたが、JR貨物では解体する予定だったそうです。また、ヨ9001と同じ東小倉に保管されていた貨車のうち、レムフ10000は長期間に渡って保管された末、JR東日本が鉄道博物館を開設するにあたって寄贈する形で収蔵され、美しく化粧直しして公開されていることは幸運だったと言えるでしょう。
ヨ9001も長期に渡って保管されていましたが、レムフ10000のようにはいかなかったものので、最後の最後で幸運を手にしました。地元の有志で作る保存会に引き取られ、福岡県内で展示保存されました。露天展示ですが、保存会の方々がこまめに手入れをされているので状態もよく、幾度かに渡って塗装し直されています。
露天展示は風雨や日光にさらされるので車体外板の痛みは室内展示に比べて早いので、定期的に塗装をし直すことが良好な状態を維持する上で欠かせないので、恐らくは保存会の方々の中に、車両検修に詳しい元職員がいらっしゃるのではないかと推察しています。いずれにしても、九州北部、筑豊地区を走り続けた往時の姿を偲ぶには十分だといえます。
特急貨物列車の殿を務めるべく、高速走行が可能な二軸車掌車として設計・試作されたヨ9000。計画した高速性能を発揮できず、逆に黄色帯を巻かれて65km/h限定にされてしまう悲運に見舞われましたが、試作台車に履き替えることで夢見た高速走行を実現し、その後も地味な運用に終始しても分割民営化まで活躍し続け、さらには保存されていることは、国鉄がいかに目的に向かって挑戦し続けたかを今に伝える存在と言えるでしょう。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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