前回までは
実力を発揮できるまでもてる性能を抑え、ただひたすら軽い列車を牽き続けてきたEF200形は16年目にして日の目を見ることができました。
しかし、それは長く続くことはありませんでした。
2008年には、パワーを抑えた後輩であるEF210形と共通の運用、つまりEF210形でもこなせる仕事になり、山陽本線の1300トン列車はEF200形でなくとも引っ張れるということになりました。
さらに、その年の10月頃に量産機の1号機が火災を起こしたことで修理不能になり、電気機関車としては20年にも満たないという短命で活躍を終え、2011年に廃車となってしまいました。さらにこの1号機は、2013年に解体されるまで、僚機である2号機以降の部品取りという運命を辿ります。
国鉄形機関車が製造から40年以上も活躍を続けているのに対して、20年にも満たない新造機のEF200形が廃車体から部品を供給とは違和感を憶えますが、この機関車の実は製造会社である日立製作所は、自主開発した試作機関車のED500形を1992年に製造したのを最後に、電気機関車の製造から撤退してしまいました。
これはあくまでも推測ですが、鳴り物入りで開発したEF200形はその大出力故に製造コストも高く、地上設備が追いつかなずに所期のパワーを出すこともできず、加えて景気が後悔し続けていく中で輸送量も減少するとい環境の悪化から、僅か21両で製造が打ち切られただけではなく、自主開発しあわよくば交直両用機として採用を目論んだED500形も試験のために貸し出したにもかかわらず結局は不採用となり、もはや日立製作所にとって電気機関車はビジネスとして成り立たないと判断したと考えられます。
こうした事情で、EF200形の交換用部品は製造元の日立製作所からの供給は望めず、火災を起こし再起不能となった1号機から部品を供給するという、工業製品として維持するには致命的な状況に陥っていました。
長年、長距離を走り続けるという仕事は、とかく故障も起きやすいもので、心許ない状況が続くのは運用するJR貨物としても芳しいものではありません。
部品を供給することになってしまった1号機もそうですが、兄弟から部品をもらうことでなんとか生きながらえることに、もらい手の2号機以降も何とも複雑な気持ちだったでしょう。検修の現場で働く車両保守の担当者も、新品の部品ではなく中古の部品を廃車体から取ってきては交換するというのは、あまり気分のいい仕事ではなかったと思います。
その後は大きな動きもなくEF200形は、東海道・山陽線の1300トン列車だけではなく、首都圏ではタンク車で組成された石油輸送列車も牽くなどの活躍を続けますが、交換部品の供給が絶たれたとなっては故障した時に修理が不能という事態になってしまいます。
そして2015年に、試作機901号機をはじめ、量産機が7両も廃車になってしまいました。製造から40年以上が経った車両が今なお活躍を続ける一方、21年でその役を御免になり廃車、そして部品の供給源となるとはこの機関車たちにとって想像し難い運命だったといえます。
▲2015年10月15日 生家ともいえる新鶴見機関区に無動力回送されてきたEF200-901。既にこの時点で廃車になって、その役目を終えていた。幸運にも901号機は解体を免れて生みの親となる茨城県の日立製作所で保存されることになった。その道中で最後の発車の時を待っている。(筆者撮影)
そして、この年のダイヤ改正では、貨物列車の花形ともいえる東海道・山陽線を走り抜ける1300トン列車の牽引の任を後輩であるEF210形やEH200形などに譲り、EF200形の仕事も減らされてしまいます。
さらに2016年には、彼らの仕事はついに4つの運用だけになってしまいました。長年走り続けた東海道本線での仕事は本務の機関車に何らかのアクシデントなどが起こったときの代走だけになり、走行する区間も吹田~幡生操のみとなってしまいました。生家ともいえる新鶴見に顔を出す機会はすっかりとなくなってしまいます。
こうしてEF200形は活躍の場が次々に減り、この年には3両が廃車になりました。