旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

消えゆく「国鉄形」 痛勤ラッシュを支え続けて【25】

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西のスカイブルー・京阪神緩行線【後編】

 こうした経緯で、京阪神緩行線103系電車が送り込まれてきたのです。
 もともと103系電車は山手線のように、駅と駅の間の距離が短く、頻繁に発車-加速-減速-停車を繰り返す路線向きの性能を備えた車両でした。
 京阪神緩行線は駅と駅の間の距離も比較的長めで、高速で走り続ける距離が長い路線です。しかも、全区間を走ると走行距離は100km弱に及び、103系電車にとってはあまり得意とするような路線ではないと思われていました。


前回までは

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  ところが、実際には首都圏の京浜東北線常磐線快速といった、駅と駅の間の距離が長く、そして全区間の距離が長い路線でも103系電車はいかんなくその性能を発揮していました。
 言い換えれば、103系電車が苦手と考えられた路線でも、十分に役割を果たすことができる優れた性能をもっていたということでした。

 こうして京阪神緩行線にやって来た103系電車は、最高で330%以上という混雑率で、異常なまでに激しさを増していた通勤ラッシュの解消に一役買うべく走り始めます。
 とはいえども、すぐに激しいラッシュを解消というわけにはいきませんでしたが、それでも従来の72系電車に比べれば加速・減速性能もよく、高速で走る快速電車に追われるように走り、待避や接続する駅に滑り込むには十分な性能をもっていたおかげで、輸送力の増強に貢献することができました。

 大阪万博の終了後も103系電車の増備は進みました。
 次々と送り込まれてくる103系電車の勢力は増していき、それまで一緒に走り続けてきた戦前製の51系電車を身延線静岡県)や飯田線(愛知県)、さらには赤穂線兵庫県)へと押し出し、同じ4ドア・ロングシートの装備をもつ72系電車も阪和線や、遠く首都圏の周辺路線(南武線など)へと転属させていきます。

 1972年からはヘッドライトをシールドビーム灯2個を備えた改良形が送り込まれてきました。この改良形が住処である西明石にやってきたことで、昼間だけにとどまるものの、運転される列車はすべて103系電車となったのでした。
 その後の増備は続けられて、1976年には最後まで残って西明石の主と化していたであろう72系電車を置き換え、ラッシュ時も含めてすべて新性能車である103系電車運転されるようになりました。

DSCN0277京阪神緩行線に配置された201系電車。電機子チョッパ制御を採用し省エネ性が高く、関西圏では列車の運転頻度が高い京阪神緩行線に配置された。(筆者撮影 2004年・京都駅)

 こうして103系電車は、1968年に西明石に送り込まれてから8年ほどで勢揃いし、京阪神緩行線の輸送力改善に大きく貢献することができました。
 しかし、1972年から運転が始められた新快速は、従来の快速よりも停車駅が少なく速達性を最優先とした列車であるがために、72系電車よりも遥かに高性能な103系電車でも、新快速から逃げ切るのがやっとという状態になってしまいました。
 さらに悪いことには、輸送力のさらに増やすために、列車の運転本数を増やされたことでした。特に朝夕のラッシュの時間帯には、普通電車は3分間隔で運転され、最速の新快速も15分間隔で運転されるといった状態になっていました。
 このために、普通列車の京都-西明石間を通しで運転することが難しくなりました。いくら性能のよい103系電車でも、さすがにこの高い頻度で運転される列車の本数では、脚が速い新快速から逃げるような運転は難しかったようです。
 やむなく京阪神緩行線は、京都-甲子園口、吹田-西明石という二つの区間で運転をすることにしました。これで何とかダイヤを組めるといったところだったのです。
 この状態は1985年まで続けられました。

DSCN0248▲夕暮れの大阪駅に到着したJR京都線205系電車。201系電車の後、京阪神緩行線に送り込まれてきた205系電車。201系電車は製造コストが非常に高いため、103系電車を置き換えるには至らなかった。205系電車は製造コストを軽減させながら、高い省エネ性を保った。(筆者撮影 2004年・大阪駅

 京阪神緩行線の顔となったスカイブルーの103系電車は、新快速や快速という脚の速い列車たちとともに、そしてそれらのダイヤを維持する観点から、系統を分割されながらも京阪神間の重要な交通手段として、多くのお客さんを乗せて走り続けました。
 1970年代は、まさに103系電車の時代といっても過言ではないでしょう。
 そのような中、1980年代に入ると早くもその地位が揺るぎ始めました。
 1983年に後輩である201系電車が、京阪神緩行線のもう一つの住処である高槻に送り込まれてきたのです。さらに翌年には明石にも201系電車が送り込まれてきました。
 すべての緩行線の電車が103系電車になって、まだ7年しか経っていません。
 それでも国鉄は、京阪神緩行線に201系電車を送り込んできたのです。
 201系電車といえば、当時の最新パワーエレクトロニクスをつぎ込んで開発された電機子チョッパ制御の電車です。103系電車に使われている昔ながらの抵抗制御と比べると、電力回生ブレーキ(ブレーキをかける時に、走るためのモーターを発電機として使い、発電された電気はパンタグラフを通して架線へ戻し、その電気は他の電車が使う)が使えるなど段違いの省エネ性のよさが売りです。
 このような最新鋭の車両が送り込まれてきてしまっては、103系電車の活躍の場も狭められてしまいます。
 増備されてくる201系電車が送り込まれてくる度に、103系電車は住み慣れた高槻や明石を去って行きました。そして、京阪神緩行線にやって来たときと同じように、他の路線へ移っても残った老兵である72系電車などの旧性能車を置き換えていきました。
 さらに1986年にはオールステンレス車体205系電車も送り込まれてきました。
 とはいえ、201系電車も205系電車も、首都圏の中央線快速や山手線のように103系電車のすべてを置き換える数にはならなかったので、その後も一部は京阪神緩行線に残って走り続けました。
 スカイブルーの103系電車が世代交代で京阪神緩行線での任を終えたのは1994年で、民営化後のJR西日本がつくった新世代の車両である207系電車がやってきたことによるものでした。