財布にはドル札、片手に英語の辞書【3】
時間を見つけては・・・といっても、現場がどうなっているのかを調べて回り、それをメモに書き留めたり、必要とあらば写真に撮ったりして記録に残したものを、詰所で図面に起こす作業を続けた。
この図面に起こす作業は、私にとってはあまり苦労のないものだった。というのも、高校時代に「製図」という実習教科があり、課題に出された電気回路を図面に描く経験があった。
前回までは
おかげで高校時代に教わったことが、ここでも大いに役に立ったのだ。
高校時代に使った製造用具はそのまま仕事でも使えたので、なけなしのお金を出して買ってくれた母からは、仕事でも活用していると知るととても喜んでくれた。
図面は古いものを見ながら新しい紙に描き写すことが主な作業だった。
とても簡単そうに聞こえる作業だが、実際には元の図面は何度も使い回され、コピーを繰り返したものなので、埃らしきものまで写してしまい、お世辞にも読み取りやすいとはいえないものだった。
そこから埃などのノイズなのか、それとも描き写すべきものなのかを読み取りながらの作業だったので、意外と手間と時間のかかる仕事だった。
さらに鉄道の構内配線図というのは、一枚の紙には収めることが不可能なものだった。
駅の構内というのは意外と広い。それが貨物駅となると、その広さは驚くほどになる。その広い駅を一枚の紙に収めると、読み取ることが難しいほど縮小した図面になってしまう。それでは仕事に使えない。
そこで、駅をいくつかに分割して、できるだけ大きく読み取りやすい図面にすることが大切だった。
そのため、一つの駅で製図用の原紙を最低でも4枚は使った。
4枚でもダメなら、5枚に増やして描いていく。
とにかく、図面を描くというのは、ただ写すだけでも根気もそうだが、知識と経験、そして思考力の要るものなんだと思い知らされた。
こうして図面を描き写す作業を進めていくと、図面の中に駅本屋を示す記号と、その上に駅名が書き込まれていた。その駅名は「瑞穂駅」とあった。
はて、こんな駅、管轄する駅にあったかな。
どう考えても瑞穂駅など、電気区の管轄にはなかった。
いまでこそ、インターネットをつかって検索すれば様々な情報を引き出し、そして調べることができるが、1990年代も始まったばかりの時代にインターネットなどという言葉もなかった。だから調べるというのは容易なことではない。
図面を書きながら同期にこの瑞穂駅というのを知っているか尋ねると、昔は確かに駅があったということだった。同期もそれ以上知らないらしく、もちろん先輩にも聞いてはみたが、あまりよくは知らないという返事。分かったのはそこまでで、それ以上は調べようがなかった。
▲鉄道マン時代に図面を描いている筆者。もうずいぶんと昔の話である。筆者の後方に写っている機械は、ジアゾ式複写機で、青色の複写図面(青図)を作成するものだった。(1992年頃)
後年、どうしても気になったので調べて見たら、なんと瑞穂埠頭に駅があったのは1958年までで、この年をもって線路などの施設はアメリカ軍の専用線となって、東高島駅の構内扱いになったという。
つまり、私がこの当時使っていた古い図面は、1958年以前につくられたものだった。少なくとも40年以上も前のものを使い続けていたということになるから、さらにビックリした。
そんなに古い図面だと知っていれば、資料としての価値もあるのだが、そうしたものを保管してないのが残念でたまらない。
そして、そんなに古いものだと知らない当時の私は、せっせと新しい図面に描き直していたから、今となってはなんてことを!なんて思いもする。とはいえ、仕事で使いづらくなっていたのは事実で、先輩からもまずは図面を描き直すことから始めるように言われたので、それはそれで間違いではなかった。