旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

もう一つの鉄道員 ~影で「安全輸送」を支えた地上勤務の鉄道員~ 第二章 見えざる「安全輸送を支える」仕事・財布にはドル札、片手に英語の辞書【5】

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仕事・財布にはドル札、片手に英語の辞書【5】

 ところが、私が担当していたのはアメリカ軍の線路だ。線路自体は日本のものだが、アメリカ軍が専用的に使うことになっている線路なので、当然アメリカ軍の管理下に置かれている。だから、民営化前の国鉄や、それを引き継いだ貨物会社は言い換えれば下請けみたいなもの。
 線路の維持に必要な保守作業も、日本の法令や規則に則って行わなければならない。その作業を行うにはアメリカ軍の承認が必要になるので、そうした図面や資料といったものはすべて英文で表記しなければならなかった。

 そして、年に一度は翌年度・・・といっても、アメリカの年度は日本と違って9月始まりなので、3月から4月には翌年度に実施しなければならない保守作業と補修工事の工事設計書を作成して、本社から防衛施設局を通じてアメリカ軍に提出しなければならなかった。

 もちろん、この工事設計書も日本語と英語、両方のものを用意しなければならなかった。

 保守作業や工事にかかる費用はいくらなのかを、積算資料などから金額を引いてきて算出し、通常の保守は年に何回必要でいつといつに実施するとか、補修工事はどの場所でどのような物を交換ないし修繕するのかも書いた。

 ようやく苦労してできあがった工事設計図面と設計書、そして積算見積書を電気区で工事設計を担当している主任に見てもらう。昼食を食べる時に使う休憩用のソファに座って、主任と向かい合って作成した書類を見てもらった時はとにかく緊張した。

 それもそのはず、その主任は民営化前は東京南局の信号通信課にいたらしく、そこで工事設計を専門に仕事をしていたというのだ。そんなプロと呼んでも過言でない主任に、入社してようやく1年が経つか経たないかの若造である私が作成した設計書など、不出来なところだらけでそうしようもなかったと思う。

 だが、この主任は経験の浅い若手が作成した書類を丁寧に見て、出来が悪くてもけして高圧的に怒るということはしなかった。できあがった書類を提出すると、「ああ、できたか。どれどれ、どんな出来かみてみようか」と、独特の訛りがある言い回しでいうと、すぐに書類を見てくれたのだ。

 そして、「よくできてはいるんだけどさ」という前を置きをしてから、間違っているところや出来の悪いところはどこかを明確に指摘し、なぜそれではマズいのかといった理由や、どのようにすれば修正できるのかといった仕方を教えてくださった。

 だから、教わる私たちのような経験の浅い若手も、どうすればもっとできるようになるのかと考えたり、どのようにして作業を進めればよいのかを教わったりすることができた。

 さて、作成した書類の修正などが終わり、主任の確認印を貰うことができたら、今度は助役に書類を出す。助役は主任に大丈夫なのかを確認をすると承認の印を押して、区長に書類を回す。区長は書類を確かめ問題がないと判断をすると、同じく承認印を押して書類を作成した職員に戻してくれる。戻された書類は逓送便の封筒に入れて支社の技術課に送り、本社、そして防衛施設局を経て、瑞穂ならアメリカ陸軍に、田浦ならアメリカ海軍の担当へと送られた。

 そして書類だけではなく、実際に現場で必要な作業やその理由の説明を、毎年3~4月にアメリカ軍の担当者に説明しなければならなかった。
 その説明には、貨物会社からは支社の技術課と、実際に保守を担当している電気区の区長と担当者(この場合は私)、防衛施設局からも担当者がやってくる。そして、アメリカ軍はといえば、外部との契約を担当している士官と、輸送を担当している士官がやってきていた。

 この時、やはり強烈な印象に残っているのは、アメリカ軍からやってきた士官だった。なんといっても、瑞穂の陸軍は迷彩服だったが、田浦の海軍は制服でやってきていた。ちょうど私が若い頃に上映され、そしてテレビでも放映されていたトム・クルーズが演じる「トップガン」の世界そのままで、とにかくビックリしたのと緊張したのと、そして意味もなく興奮したことははっきりと覚えている。

 だが、そんな現地での説明も、私が大の苦手とする英語でしなければならなかった。

 私が書いた書類のなかに、交換が必要な設備があった。
 アメリカ軍の士官は書類を見て、なぜこの設備は交換が必要なのか、そして何に使う設備なのかを聞いてきた。もちろん、それはすべて英語。私の時代、学校で教わる英語は文法がすべてで、リスニングなんてものがなかったから、とにかく必死になって何を喋っているのか、知っている単語が出てくればそれを頼りに理解するほかなかった。

 それでも何を喋っているのか分からないこともあった。そんなときは、防衛施設局の担当者が何を質問しているのかを教えてくれた。

 そして私から答える時はというと、苦手なりにも知っている単語と文法を駆使して、大袈裟ともいえる身振り手振り、そして現場の設備を指し示しながら英語で話した。
 いま思うと、本当に笑えるくらいに酷いものだった。
 なにしろ思いつく単語を並べただけで、英語の先生に言わせると文法もメチャクチャそのもの。それでも、アメリカ軍の士官は私の話を真剣に聞いてくれて、理解しようとしてくれたのでなんとか伝わったようだった。

 このとき、コミュニケーションとは面白いものだと思った。
 話す言葉は違えど、お互いに伝えようとしたり、受け止めようとしたりすればなんとか通じるもの。話す相手のことを考えずに一方的に話せば、どんなに話すことが得意でも伝わらない。だからコミュニケーションは一人ではできないし、伝えようとすることが大切だということだった。