旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

もう一つの鉄道員 ~影で「安全輸送」を支えた地上勤務の鉄道員~ 第二章 見えざる「安全輸送を支える」仕事・現場へ向かう公用車の運転は若手の仕事【3】

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 横浜羽沢にある本区から梶ヶ谷貨物駅にある派出へ転属となっても、公用車の運転は変わらず若い職員である私の仕事の一つだった。本区と同様に、それまで20歳代の若い職員の配置がなかったから、私が転属して着任すると先輩方は大いに喜んでくれた。

 派出勤務になって、運転する距離はますます多くなったと思う。

 それというのも、派出の詰所がある梶ヶ谷貨物駅構内の作業はあまり多くなかったが、中央本線八王子駅での作業がもっとも多く、1か月の間に何度も足を運んだ。ともすると、土曜日を除いて1週間毎日八王子駅に行くなんてこともあった。

 梶ヶ谷貨物駅があるのは神奈川県川崎市八王子駅は東京都八王子市で、その間の距離は往復で軽く50kmは超えていて、片道1時間から1時間半はかかっていた。
 そんな長い距離を往復して、しかも現場では作業をしなければならない。気力も体力も要る仕事だったが、そこへ体力のある若い私が入ったのだから、先輩方にしてみれば若手に運転を代わってもらえば少しでも楽になるというものだ。

 もちろん、私も喜んで運転を引き受けた。そして、現場ではたくさん仕事を教えてもらえたから、それはそれでよかったのかも知れない。

 ところで派出に配置されている公用車は、本区の車と違ってパワーステアリングを装備している新しい車だった。商用車の日産ADであることは変わらなかったが、年式はその当時のものだったので運転も楽だった。
 それに加えて、派出にはどういうわけかダブルキャブの1.5トントラックも配置されていた。同じく日産のアトラスという車で、やはり年式は当時のものだった。

 私はトラックを運転する方が多かった。というより、トラックを運転する方が楽しみになっていた。運転席は高い位置にあって、見通しも良い。前タイヤの上に座席があるので、凸凹道などでは揺れをまともに拾ってしまうから乗り心地はよくないこともあったが、それでも往復50km以上はある八王子駅での作業では、トラックの方が少しは楽だった。

 

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▲派出勤務時代によく運転した日産アトラスの同形車。余計なスイッチがないシンプルな運転席パネル、見通しの良い大きな前面窓、そして比較的大きなハンドルのおかげで取り回しがしやすかった。(©天然ガス [CC BY-SA 3.0], ウィキメディア・コモンズより

 

 また、ハンドルの取り回しもふつうのライトバンとは違い、曲がり角では少し大回り気味にハンドルを切るので多少は苦労もあったが、その取り回し方が面白くて仕方がなかった。

 派出に勤務していた1年ほどは、ほぼ毎日のように運転していたから、運転の技術も磨くことができた。車の運転を上手になるためには、運転する距離を伸ばすしか方法はない。ちょうどパイロットが操縦技術を磨くために、飛行時間を稼ぐのと似ている。この時の経験は、後年になって普通自動車二種免許(当時、現在は中型自動車二種)を取るときにも大いに役に立った。

 ところで梶ヶ谷貨物駅と八王子駅を往復するためには、非常に入りくんだ道を行かなければならなかった。当時はいまのように幹線道路も開通していないところがあって、住宅地の中を通り抜けなければならないところもあったのだ。
 その住宅地を抜けて、小田急新百合ヶ丘駅をとおると、さらにその先には住宅地の中を走らなければならない。そして、再び幹線道路にでると今度は急峻な坂道を通り抜け、尾根幹道路と呼ばれる多摩丘陵の上をとおる道路を走った。

 いまでもこの時通った道を覚えている。それだけ毎日走っていた道路ということだろう。

 ところで、この道沿いには女子大のキャンパスがあった。
 ある日の夕方、たぶん季節は秋の終わりから冬だったと思うが、八王子駅で作業を終えての帰り道、この女子大の前で赤信号でトラックを駐めた。すると、信号を横断する女子大生がどっと歩いてきた。
 たぶん1日にの講義が終わったのだろう、友だちと楽しそうにお喋りをしながら、信号が青に変わったので渡り始めた。私は信号待ちをしながら、彼女たちの姿をちらっと見ると、どうやらこちらの方を見ながら何やら話をしているようだった。

 この女子大生たち、年の頃は私とほぼ同じ。そりゃそうだろう、私もこの頃は20歳になっていたし、高校に通っていたのはついこの間のこと。進学していれば大学に行っていたかも知れないから、同年代であるのは間違いない。
 そして、同じような年代の男が、トラックのハンドルを握って信号待ちをしている姿が目に留まったようだったのだ。
 そして次の瞬間、彼女たちの顔は僅かにハッとしたようだった。
 こちらは青い制服を着ているが、頭には制帽を被っていた。制帽にはJRの紋章が入っていて、一目でJR職員だとわかるものだ。それが見えたのだろう、女子大生たちは少し驚いたというか、不思議そうな顔をしていたのだ。
 まあ、JRで働く職員といえば、駅や電車の中にいると考えるのがふつうだ。それが、丘陵地の真ん中にある道路を、それもトラックにJR職員が乗っているなんて、誰も想像できるはずもない。しかも、自分たちと同じ年代の男が、そうした制服姿でいること自体もあまり考えられなかったのだろう。

 とはいえ、こちらも仕事中だったし、隣には先輩もいたから特になにかをしようとは考えなかったが、同じ年代でも働く人と学び続ける人と、人生はいろいろだなあなんて思いもした。

 ちなみにこの女子大はいまもあって、その後10年ほど経ってここで学んで卒業したのが私の妻だ。いまでも妻の大学の話題になると、派出勤務時代のこのエピソードを思い出すことがある。