第二章 見えざる「安全輸送を支える」仕事・派出勤務と一本立ち【6】
鉄道マンでも乗務員、特に運転にかかわる機関士や運転士は、動力車操縦免許を取得し運転区所へ配属となると、指導役の先輩乗務員とペアを組んで仕事を教わる。いわゆる「師匠と弟子」の関係になり、一本立ちした後も彼らの絆は非常に強いという。師匠となる指導役の乗務員からすれば、弟子となった後輩の乗務員を大切に見守り、よく面倒を見るという。
同じ鉄道マンでも職種が違うと、新人の育て方は大きく異なる。
車両所(旅客会社でいえば工場、総合車両センターなど)や機関区などで車両の検修業務をする車両職場の人たちは、担当する仕事ごとにチームを組んでいるので、大勢の先輩たちが若手を教育していくので、乗務員のように常に二人きりになることは少ない。
私のような施設・電気職場の場合は、乗務員はもちろんのこと、車両職場とも違った。
貨物会社の場合、職員がもっとも多いのが運転系統だった。機関車を運転する機関士や、駅で貨車の入換作業や信号扱をする輸送係だ。次いで車両の検修をする車両係、そして駅で貨物の受発送業務を扱う営業係の順で、線路施設や電気設備の維持・管理を担う施設・電気職場の職員は最も少ない(但し、本社や支社などに勤務する非現業機関の職員は除く)。
そのため、限られた人数の職員しかいない施設・電気職場は、若手の育て方も車両所や運転区所とも異なっていた。機関士のように誰かについて指導を受ける師弟関係などはなく、どちらかといえば車両所や機関区の検修職場のように、チームで指導を受ける。が、私のように電気区勤務になると、信号・通信・電車線・電灯電力の4つの仕事を異なる先輩方から同時に教わっていた。
だから、とにかく毎日異なる先輩について、一緒に仕事をしながら教わり技術や知識を身につけていかなければならないから、忙しいという言葉では済まされないほど大変だった。
梶ヶ谷の派出勤務も慣れてくると、先輩に教わりながらも一通りの仕事ができるようになった。本区時代は在日米軍の保全工事設計を中心に、現場に出ては信号関係の保守作業と列車見張が多かった。
派出には私を含めて5人しか職員がいなかったので、仕事を選んでいる余裕などどこにもない。だから、信号だけではなく、電力関係の仕事も覚えるようになった。
また、私がいた頃は、八王子駅や八王子機関区の設備の老朽化が著しかった。そのため、ある程度予算が付くとすぐに補修工事がおこなわれたので、夜間作業も必然的に多くなっていた。
ある日、先輩から夜間作業の立ち会いの話が出た。八王子駅構内で、分岐器の全交換作業だったと記憶している。分岐器というと、いわゆるポイントのことで、ここを通過する車両は必ず左右に揺れることになる。重量のある車両、特に機関車が通過するとその揺れも大きく、レールや軌道にも相当の負荷がかかってくる。この負荷が積み重なると、当然だがレールも摩耗してしまう。そこで、一定程度の摩耗が認められると、レールを交換することになるが、分岐器の場合は摩耗したレールだけを交換することが難しいため、分岐器を構成するレールをすべて交換することになる。
これを、分岐器の全交換といった。
分岐器というと、施設区(旅客会社なら保線区)の管轄だ。だから、分岐器全交換の工事は、施設区が主体になっておこなう。八王子駅の場合は、同じ構内にある八王子施設区が施工区所となる。
では、なぜ電気区が出てくるのか、ということだが、「ダルマ」と呼ばれる鎖錠器のない、手動式の分岐器なら施設区だけで工事は終わる。
ところが、鎖錠器のある手動式の分岐器や、電気モーターで転換する分岐器には転轍機がついている。分岐器を動かすための転轍機は、信号回路に接続されているので、電気区(旅客会社なら信号通信区または信号区)の管轄だ。転轍機のある分岐器交換となると、転轍機を仮撤去・復旧という作業が必要になるので、私のような電気区の職員が立ち会わなければならなかった。
そして、いつもの通り、工事内容の説明を受けると、先輩の口から予想もしない言葉が出てきた。
「ナベ、お前が1人で行ってこい」
はあ、1人で、ですか。え?1人で作業の立ち会い!?
私は思わず耳を疑った。夜間作業の立ち会いを、私に1人に任せるなんていったいどういうつもりなんだろう、と。いくら一通りの仕事ができるようになってきたとはいえ、電気区に配属されてまだ2年も経っていない。それどころか、まだまだ学ばなければ分からないことだらけで、とてもじゃないが何かあったら1人で対応なんてできるわけがない。
私は恐る恐る、本気なのかというようなことを訊ねた。もちろん、あまりにもストレートに訊けば、先輩の機嫌を損ねてしまい、最悪は叱られてしまうだろう。下手をすれば機嫌を損ねた先輩は、だから、ある程度遠回しに訊いたと思う。
しかし、先輩は1人で大丈夫だという。いくつか理由もあったが、なによりも派出で一番若い私に経験を積ませたいという思いからだった。そうなると、私は「わかりました」としか答えられない。自信があろうがなかろうが、口が裂けても「無理です」なんてことは言えなかった。
いまなら、職場の先輩や上司とこんなやりとりをしようものなら、最悪は「パワハラだ!」なんてことになりかねない。まだ、国鉄からJRへ看板を架け替えて間もない1990年代の初めの頃は、国鉄時代から脈々と受け継がれてきた先輩と後輩の関係が生き続けてきた、ある意味厳しい世界だった。