旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

消えゆく「国鉄形」 常に目立つことなく隠れた力持ち【12】

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 1987年の分割民営化によって、DE11形にはさらに大きな衝撃が訪れました。

 操車場の機能停止・廃止によって、仕事そのものが失われました。

 操車場で重量の嵩んだ貨車を押したり牽いたりする、専ら重入換作業をするための性能をもって誕生したDE11にとって、その仕事場である操車場がなくなるという事態は、彼らにとってまさに死活問題です。

 仕事場を失ったDE11形は、初期型である0番代の多くが余剰となり、廃車の運命を辿っていきました。残った出力増強形の1000番代と、低騒音型の2000番代は廃車の免れ、貨物駅や小運転などに使われ続けます。

 ところが、DE11形は操車場での重入換用としてつくられたので、軸重は14トンと重い設定となっていました。重量の嵩む貨車を何両も押したり牽いたりするのには適していましたが、ディーゼル機関車が走ることが想定される本線は線路等級が低い・・・つまり線路の構造が弱いため、軸重の重いDE11形は使えませんでした。

 こうした路線には、同じ形状と出力をもちながら軸重に13トンと抑えられたDE10形が最適だったのです。つまり、DE11形が本線で列車を牽く仕事ができる路線は限られてしまい、それなら汎用的に使えるDE10形の方が使い勝手がよいとばかりに重宝されたのでした。

 そして、年を追うごとに貨物列車も合理化が進み、操車場廃止後も輸送基地としてその機能を残された貨物駅などでは活躍を続けることができたものの、こちらも分割民営化までにはすべて廃止され、いよいよDE11形の仕事はなくなってしまいました。

 その影響で、出力増強形の1000番代も車齢がまだ若かったにもかかわらず、分割民営化までには多くが御役御免となりました。彼らは新会社へ引き継がれることなく国鉄清算事業団の所有となり、最後は廃車の運命を辿っていきました。

JRF-DE11 1029
▲重量70トン、軸重14トンという機関車の仕様は、操車場において重入換作業に特化したものだった。そのため、兄貴分となるDE10のように支線区へ入ることに適さず、59.2ダイヤ改正によってDE11の仕事場であった操車場が廃止されると仕事を失い行き場もなくしてしまった。1987年の分割民営化では、僅かな数の車両が引き継がれた以外はすべて廃車という運命を辿った。写真の1029号機は幸運を手にした数少ない車両だった。(©Mutimaro [CC BY-SA 3.0], ウィキメディア・コモンズ経由で

 

 一方で運がよかった車両もありました。

 1987年の民営化で、DE11形は0番代が3両、1000番代が5両、1900番代が1両、2000番代が4両の合計13両が継承されていきました。彼ら以外の兄弟たちはすべて廃車となってしまいましたが、それでも生き残る運命を手にした車両たちがいたのです。

 ところが、貨車の入換がこの機関車の仕事だったのですが、0番代と1000番代、そして1900番代は旅客会社であるJR東日本に引き継がれたのです。

 国鉄は分割民営化に際して、旅客会社は基本的には機関車は必要最低限だけ継承させるようにしました。多くの車両をもつことは、万一故障などで代わりとなる予備を確保できますが、その分だけメンテナンスもしなければなりませんし、民間会社なので資産として計上されるので税金もかかるなど、コスト面では不利になります。

 そのため、旅客会社は運転区所での入換作業や一部のレール輸送、砕石輸送といった臨時工事列車用に機関車を引き継ぎました。この他に、分割民営化当時はたくさん走っていた寝台特急などの夜行列車を含む客車列車のために、必要な数の機関車も引き継がれます。

 また、一部の貨物駅の入換え作業を旅客会社が貨物会社から受託して行うこともあったり、機関士は貨物会社の社員で機関車は旅客会社の車両というパターンもあったりしました。
 そのためなのか、DE11形は旅客会社であるJR東日本に引き継がれたのですが、本来ならDE10形の方が使いやすいのにもかかわらず、仕事場が限定されるDE11形を引き継いだのはなにかしらの理由があったからでしょう。

 一方、貨物会社にもDE11形は4両引き継がれました。こちらはすべて低騒音型の2000番代で、民営化後も引き続き稼働している都市部にある横浜羽沢駅や西湘貨物駅といった貨物駅での入換え作業という、貨物列車の合理化や分割民営化前と変わらぬ仕事が与えられていました。