旅メモ ~旅について思うがままに考える~

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海峡下の電機の系譜【Ⅵ】 国鉄最後の交流電機・ED79(4)

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7.国鉄最後の交流電機・青函トンネル専用のED79 

7-4 JR貨物初の交流機 ED79 50番代の新製

 1980年代の後半は、バブル経済による好景気に見舞われました。不動産売買が極端に盛んになり、地価は高騰を続けるという異常な中、国内の物流もまた好景気で異変が起きていたのです。

 さすがにこればかりは、国鉄が分割民営化が決定された時点で予想外のことでした。そもそも国鉄の貨物輸送は減少の一途を辿り、物流におけるシェアはかなり低下してしていました。JR貨物が設立された時点で、鉄道貨物の輸送量は大きく変化しないと見込まれていたので、必要最小限の人員と施設、そして車両が継承されただけで、青函トンネル専用のED79も旅客会社が継承し、貨物列車の運転は旅客会社のED79を借りれば済むと考えられたからでした。

 まさかそれでも捌けないほど貨物列車を増発するなど、予想外のことだったのです。

 それに応えるため、JR貨物は機関車の増備を始めました。東海道山陽本線で運用されるEF66 100番代や日本海縦貫線のEF81 500番代、関門特殊仕様のEF81 450番代と、増加し続ける輸送量に対応するために、国鉄時代の機関車をリピートオーダーしたのです。

 青函特殊仕様機であるED79もまた、JR貨物によって増備・新製されたのです。

 50番代は、本務機である0番代とほぼ同じ仕様となりました。制御方式は無電弧低圧タップ切換・弱め界磁制御で、サイリスタを用いた整流制御により0番代と同じく回生ブレーキを使用できるようにしました。そのため、抵抗器も同じく設置されたので、屋根上には同じ形状のカバーも設置されています。

 ただし、0番代と100番代が最高運転速度が110km/hであったのに対し、50番代は100km/hと若干遅くなってしまいました。

 また、保安装置は0番代と同じくATC-Lと、ATS-SNの貨物仕様であるATS-SFも装備しました。ただしATC-Lについては、0番代が青森方と函館方でそれぞれ受信できる信号が限定され機関車の向きを変えることができなかったのに対し、50番代は機関車の向きが変わっても運転できるように改められました。これは、機関車の運用に柔軟性を持たせることができただけでなく、将来的には海峡線だけではなく遠く東北本線での運用も可能にしました。

 

f:id:norichika583:20200704234448j:plain(©Sappoatu / CC BY Wikipediaより引用)

 

 車体も基本的には0番代と同じでしたが、全幅が0番代の2,800mmに対して50番代は3,074mmへと僅かに広がりました。青函トンネルで使用される列車無線のアンテナも、運転台の窓下に設置されているので長方形の膨らみが目立ちました。そして、前面は貫通扉付の国鉄形機関車の標準的なデザインでしたが、ED76など非貫通機と同様に前面上部が5度の傾斜がつけられたため、貫通扉が少し出っ張ったような意匠に変わっていました。

 塗装も他のJR貨物の新製機と同じく、下部がライトパープルと上部が濃淡のブルーというJR貨物標準色を身に纏いました。ただ、乗務員用扉は直流機のカラシ色に対し、交流機であることを示す赤1号*1とし、前面窓周りは黒く塗装されたブラックアウトが施されていました。

 JR貨物によって新製された国鉄形機関車は、原則として客車列車を牽くことを考慮しない貨物専用機としたので、冬季に客車の暖房供給をする装備をもちませんでした。しかし50番代については青函トンネルという特殊な環境下での運転や、0番代と100番代を所有するのがJR北海道から借り受けることが続くこと、さらに海峡線には50系客車で運転されている快速「海峡」があり、何らかの事情で50番代がピンチランナーとして運用されることも考えられることから、電気暖房の電源装置を装備しました。

 実際、快速「海峡」の運用に入る予定だった0番代が故障などで走行できなくなり、ピンチランナーとして50番代が先頭に立ったこともあるようです。ED79は青函特殊仕様であるとともに、その数も必要最小限しかないが故に、こうした運用も考慮されていたのでしょう。

 1989年に東芝で新製された50番代は、全10両が五稜郭機関区に配置されました。基本的には貨物列車を牽く運用だったため、常に重連で使用されていました。重連を組んでの運用となるので、50番代は5組となっていました。これだけではすべての貨物列車を捌くことはできないので、JR北海道から委託という形で借用した0番代・100番代とともに青森信号場ー五稜郭駅(後の函館貨物駅)間で使用されました。

 1991年のダイヤ改正では、間合い運用として盛岡貨物ターミナルまで運用範囲を拡大しました。その後、1997年のダイヤ改正までには遠く長町駅まで乗り入れるようになり、長町機関区(後の仙台総合鉄道部)のED75を補完する運用もありました。

 新製機ではあるものの、重連での運用が常態化していたため、旅客会社へ支払う線路使用料もその分だけ支払わなければならず、50番代だけでは所要数が不足するためJR北海道からも0番代・100番代を借用していたため委託料をも支払っていました。

 これらの費用はできれば軽減したいのが貨物会社の本音で、より運用コストを軽減できる後継機であるEH500が開発されました。しかしEH500ですべてのED79の運用を置き換えるまでにはまだかなりの時間が必要だったことや、日本海縦貫線の貨物列車はEF81やEF510が担っていたため、青森以北へ乗り入れる列車にはED79に付け替えていたため、北海道新幹線開業直前の2015年まで活躍を続け、その年に全機が廃車となって形式消滅しました。

 これは、1989年に新製されて以来26年目のことで、国鉄から継承したEF65やED76が活躍していることを考えると、民営化後に新製された機関車としては比較的短い部類に入るでしょう。

 

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#青函トンネル #交流電機機関車 #ED79 #国鉄 #JR北海道 #JR貨物

*1:JR貨物の標準色は直流、交流、交直流と共通であったが、これだと機関車の電源が識別しづらくなってしまった。そのため、乗務員扉の塗装で識別することとなり、直流機はカラシ色(青15号ではなかった)、交流機は赤1号、交直流機は赤13号とされた。