旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

「お家の事情」で構造が異なっても同一形式を名乗った北の交流電機【6】

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《前回のつづきから》

 

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 1987年の分割民営化では、ED76 500番代はJR北海道に継承され、岩見沢第二区を引き継いだ空知運転所配置となって、引き続き函館本線電化区間の客車列車を牽いていました。

 しかしながら、分割民営化直後にJR北海道711系に続く近郊形電車を新製し、効率が悪く運用コストのかかる客車列車の置き換えを始めます。当然、ED76 500番代も721系に追われるように運用を徐々に失っていく途を辿っていきました。

 客車列車の運用がなくなったのであれば、貨物列車での運用に充てればまだまだ活躍の場もあったと考えるのは必然かもしれません。

 

10系客車と連結した状態のまま展示されているED76 509。かつてはこうした光景が札幌都市圏でも見られたが、それも昔のことだ。ご覧のように褪色が激しく、現役時代の面影がない。静態保存の車両は保管展示の仕方によって左右されるが、露店展示の場合は風雨や日光にさらされるため、車両自体の老朽化が激しくなりがちである。そのため、状態を保つには定期的な整備と塗装の塗り替えが欠かせないが、長引く不景気の中でそうした資金を確保すること自体が困難になるなど、保存車両を取り巻く環境は年々厳しくなっている。願わくば、こうした車両たちが末永く保存され、鉄道史を後世に伝えつづけてほしい。(ED76 509〔空〕 小樽市総合博物館 2016年7月26日 筆者撮影)

 

 しかし、分割民営化によって貨物輸送はJR貨物が継承したことや、わざわざ短い区間のために機関車を付け替える手間とコスト、さらにED76 500番代は旅客会社であるJR北海道が継承したことから、これを貨物列車の運用に充てるとなると、運転業務の委託や機関車の借用など、会社間での複雑なやり取りをしなければならず、わざわざ煩雑かつ高コストな運用をするメリットはなかったのです。

 結局、ED76 500番代は分割民営化後は貨物列車の運用もなく、721系の増備とともに、50系51形客車ともども仕事を失っていきました。総勢で22両がいた500番代は、最末期にはわずか4両にまで減っていき、1994年に札幌都市圏の普通列車は、711系と721系に置き換えられ、残存した4両はすべて廃車となり区分消滅していきました。

 22両製造された500番代は、1994年の時点で21両が廃車となりましたが、1両だけは生きながらえることができました。

 1991年に514号機は、青函トンネル専用機としての改造が施され、550番代に区分変更されました。自慢の強力な蒸気発生装置は撤去され、代わりに電気暖房用の補助変圧器を設置、さらに連続12‰の長距離勾配に対応するために電力回生ブレーキが使えるサイリスタ整流器に交換、保安装置もATC-Lを装備するなどED79と同じ仕様に改造されました。

 550番代はED79の増備機として計画され、最初の1両となる551号機が改造により登場、生還運転所に配置されてED79とともに青函トンネルを含む海峡線の客車列車を牽く任に就きました。

 551号機は一応の成功を見たものの、その後に続く改造は見送られてしまいました。

 ED79ED75 700番代を種車として改造したのに対し、550番代は500番代を種車に改造した車両でした。両者の決定的な違いは車体の長さで、ED79が14,300mmであるのに対し、550番代は18,400mmとF級機に迫る長さでした。そのため、列車によってはED79ならすべてホームに収まるのが、550番代でははみ出てしまうなど問題を抱えることになりました。

 また、停車位置の問題も起こりました。ED79と550番代の長さが極端に違うことから、駅などでの停車位置も大きく異なり、ハンドルを握る運転士は非常に神経を使う羽目になったのです。その結果、550番代の運用は限定されたものになり、例えば寝台特急北斗星」の運用には入ることはできず、「トワイライトエクスプレス」であれば運用に就くことができるなど、ED79と共通運用を組むことはできませんでした。

 結局、機関車が不足するときにはED79の新製増備車をもつJR貨物から借りることで賄うことにし、ED79と共通運用を組むことができず、運転取扱にも特段の配慮をしなければならない550番代を、わざわざ大金をかけて改造する意味を失ったため、JR北海道は514号機1両を改造して計画を放棄したのでした。

 たった1両だけ改造された514号機改め551号機は、その後も青函所に配置されて海峡線の列車を牽き続けました。運用が限定されていたので、貨物列車の先頭に立つことはありませんでしたが、編成の短い「トワイライトエクスプレス」や「エルム」などに充てられました。

 そして、2001年についにその命運も尽きてしまいます。それでも、僚機たちは20年強で廃車という運命を辿ったのに対し、514号機から改造された551号機はそれよりも長い33年でその役目を終えたのでした。

 

国鉄分割民営化でED76 500番代はJR北海道に引き継がれ、国鉄時代と同様に札幌都市圏を中心に函館本線の電化区間でローカル列車を牽く姿が見られた。貨物列車はJR貨物が継承したため、これらはDD51重連でその任にあたり、ED76 500番代は専ら客車列車専門となった。酷寒の北海道では列車の暖房は非常に重要で、客車に高圧蒸気を送り込む蒸気発生装置は本州用と比べて大きくなるなど、酷寒地向けの装備が充実していた。写真のように電気機関車から蒸気を吐き出す光景も1980年代終わり頃には見られ、真っ白な構内に赤いED76 500番代と50系51形客車がよく映えている。721系などの新製によって徐々にその役を譲っていき、550番代に改造された514号機を除いて1994年までに全車が廃車になっていった。(©日本語版ウィキペディアのSi-take.さん, CC BY-SA 3.0, 出典:ウィキメディア・コモンズ)

 

 北海道専用の交流電機として開発され、酷寒の大地で運用可能な様々な耐寒耐雪装備をもった極寒地仕様、さらには当時としては最新のサイリスタ位相制御を採用した500番代は、単に動輪軸4個のD級機であることと、暖房用の蒸気発生装置を装備しているという理由だけでED76の一員とされました。

 それは国鉄が抱える複雑な事情に起因することでした。その命名の経緯同様に、500番代の歴史は時代に翻弄されたものでした。

 製造から10年も経たないうちに電車化はさらに推し進められ、1980年代に入ると貨物輸送は衰退し、特に北海道にあった炭鉱は相次いで閉山、機関車が最も活躍する貨物列車も皆無になってしまいました。さらに追い打ちをかけるかのように、国鉄の赤字解消のために合理化が推進され、500番代の活躍の場は徐々に狭められていきました。

 そして、1987年には分割民営化によりJR北海道に継承はされたものの、新会社は721系を続々と量産させることで、機関車牽引の列車を淘汰していくなど、わずか25〜6年の間に実に様々なことが起こったのでした。

 激動の時代に生まれてしまった運命といえば確かにそれまでかもしれません。しかし、711系と同様に酷寒の大地を駆け抜けるため、多くの耐寒耐雪装備を電機に施すというのは、国鉄の技術陣にとって並大抵の苦労ではなかったでしょう。その努力があったがゆえに、500番代は鉄道車両として比較的短い寿命だったものの、しっかりと北の大地を走り抜けたのでした。

 また、500番代で開発した技術は、後年になって大いに役立てられました。

 民営化後、機関車を多く保有することになったJR貨物は、1990年代に入って北海道で運用する機関車の置き換えを画策します。非電化区間での運用もあるので、電機というわけにはいきませんでしたが、DF50以来の電気式ディーゼル機関車のDF200にも、北海道の過酷な冬に耐えられる装備をもたされました。それは、500番代で得た見地が、新世代の機関車に受け継がれたと言ってもけして過言ではないといえるでしょう。その意味で、500番代のDNAというべきものは、半世紀を超えた今日においても脈々と活かされているのです。

 

 今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

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