旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

続・悲運のハイパワー機 幻となった交直流6000kW機【7】

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8.悲運の機関車が遺していったもの

 EF500はEF200と同様に大きな機体を背負って誕生し、貨物会社とメーカーの技術陣がなんとか実用化に漕ぎ着けようと懸命の努力をしたものの、結果的には「失敗作」の烙印を押されて開発は終わらされてしまいました。

 しかし、この間のEF500を取り巻く環境も大きく変わったことも、開発を終わらせられた要因の一つでした。

 試作機である901号機が誕生した1990年は、いまだバブル景気の真っ只中で、貨物の輸送量も増える一方でした。加えて好景気に支えられてトラック輸送も飽和状態になり、長距離トラックのドライバーが不足していたことで、溢れた貨物が鉄道にシフトしてきたことも新型機関車の開発を支えていました。

 しかし、1991年になると状況は一変します。

 1991年の半ば頃になると絶好調に見えた景気は一気に下降線を辿りました。いわゆる「バブル崩壊」と言われることで、これ以後は急速な景気の冷え込みにより貨物の輸送量も減ってしまいました。トラック輸送も輸送量が減ったことで、ドライバー不足も解消へと向かい、溢れていた貨物も減少していきました。

 これ以後は景気の回復も見込めず、鉄道貨物の輸送量はよくて横ばい、右肩下がりが当たり前という「冬の時代」を迎えました。そして、輸送量が減ったことで、貨物会社の収益も芳しいものではなくなり、1,600トンという超重量貨物列車の運転そのものが必要なくなっていきました。

 EF200は直流機であり、景気が悪化したとはいえ輸送量の旺盛な東海道山陽線で使うことを想定していたので量産しても使い途はありましたが、EF500が活躍することを想定していた東北~北海道と日本海縦貫線はそこまでの輸送量もなく、1,600トン列車を運転する必要性もなくなったのでした。

 そのため、EF500にあたえられた6,000kWというハイパワーも必要なくなり、解決しなければならない課題が山積した機関車の開発を続ける理由がなくなってしまったのでした。

 こうして、EF500は試作機の誕生から僅か数年でその役目を終わらされ、さらに日の目を見ることなく新鶴見の片隅に追い遣られ、誕生したときの期待とは裏腹にもはや無用の存在とされてしまったのです。

 1994年以後、ほとんど自力で走る機会もなく、ただただ新鶴見の片隅に放置されたも同然の扱いを受けたものの、2002年に正式に廃車となるまでは車籍を維持し続けていました。車籍を維持し続けた理由は定かではありませんが、いずれにしても誕生から12年で運命を完全に絶たれたというのは、あまりにも早い終焉だったといえるでしょう。

 しかし、量産化こそ実現はしませんでしたが、EF500はこれ以後に開発されるJR貨物の機関車の方向性を位置づける存在となったという意味では、非常に大きな功績があったといっても過言ではありません。

 EF200とは異なり交直流機であるEF500は、後に誕生するEH500EF510といった機関車たちの機器構成の基本となりました。

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▲EF500の開発経験をもとに、日本海縦貫線の輸送実態に合わせて性能を適正なものへと変えて開発されたEF510。あまりにも過剰・過大だった出力はEF81よりも若干高い3,390kWとしたことで、地上設備の増強を必要としなくなり量産化も順調に進めることができた。今日では、富山機関区に所属していたEF81をほぼすべて置換え、日本海縦貫線での貨物輸送の主役として、過酷なまでの運用をこなし続けている。(2012年8月・東海道本線山科駅 筆者撮影)

 東北~北海道間の列車を牽くことを目的としたEH500は、製造メーカーこそ川重・三菱電機ではなく東芝でしたが、その基本仕様はEF500の経験があったからこそでした。出力は4,00kWへと抑えられた代わりに、常にED75またはED79重連運用が常態化していたのを、動輪を8軸にしたH級機として機関車1両で牽くという発想は、まさにEF500の設計思想そのものでした。

 日本海縦貫線国鉄から引き継いだEF81が単機で長距離を走るという過酷な運用が常態化していました。直流1,500V~交流20kV60Hz~直流1,500V~交流20kV50Hzと電源も変わるため、これらに対応できる機関車はEF81しかありませんでした。しかし、EF81は装備する電気機器の特性上、直流区間と交流区間では出力が異なるという課題を抱えていました。さらに、常に長距離運用を強いられてきたため、富山機関区配置のEF81は老朽化が進行していたのでした。

 この問題を解決するため、EF510が開発されました。開発・製造したメーカーはEF500と同じ川重・三菱電機のコンビで、制御機器の半導体素子こそ新しいものでしたが、車体の意匠はEF500に通じるヨーロピアンスタイルでした。出力も3,390kWとEF500はもちろん、EH500に比べても控えめでしたが、EF81の2,250kW(直流時)に比べれば強力になったことでパワーにも余裕がもてるようになりました。これもまた、過大なパワーをもったが故に失敗機となってしまった経験が生かされたといっていいでしょう。

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▲青色塗装のEF510は、民営化後初めて旅客会社が新製した電気機関車であった。JR東日本は、首都圏から常磐線方面の貨物列車の運行を受託していた関係もあり、老朽化が著しくなったEF81の置換用としてJR貨物が開発したEF510に若干の仕様を変更して15両製作した。貨物列車での運用の他、寝台特急北斗星」や「カシオペア」の先頭に立つなど花形の仕事も任されたものの、北海道新幹線の開業に絡んで寝台特急は廃止になり、さらに貨物列車運転の受託を解消したため早々に余剰となり、500番代15両は全機JR東日本としては廃車となった。廃車となった15両はそのまま富山へと送られ、貨物仕様に改造後、日本海縦貫線での仕事に就くことになった。写真は新鶴見に停泊する500番代。先頭の形状は上下と左右に「く」の字形に折られた流線型で、屋根の曲線と合わせてヨーロッパの機関車の意匠に近い。これは、EF500も同様で、EF510のデザインはEF500から改良を加えられたものといえる。(2010年12月 新鶴見機関区 筆者撮影)

 

 EF510はその後、1987年の分割民営化後、初めて旅客会社が新製した電気機関車として、JR東日本が500番代15両を製作しました。

 このように、EF500そのものは解決しがたい課題と、環境の大きな変化によって日の目を見ることのない悲運の機関車でしたが、その開発経験とDNAとも呼べるものは今日第一線で活躍する機関車たちに受け継がれたのでした。