旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

EF510 300番台の増備で置き換えが確実になった九州の赤い電機の軌跡【12】

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《前回からのつづき》

 

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■豪雪地帯・日本海縦貫線から押し出されてきたEF70形とED74形 

 交流20,000V60Hzでの電化は、九州だけでなく北陸本線でも実施されました。こちらは、九州の電化よりも早い時期だったので、国鉄初の量産交流電機であるED70形が製作され、敦賀機関区(後に敦賀第二機関区)に配置されて運用されました。しかし、ED70形は国鉄にとって未知の世界である交流機ということもあって、量産はされたものの施策的な要素が非常に強く、また黎明期の交流機に共通して機器類の故障などが頻発し、扱いの難しい車両でした。 

 一方、北陸本線の交流電化は徐々に北に向かって進展していく中で、難所でもある敦賀駅−今庄駅間の山中峠を通るルートは勾配がきつく、スイッチバックなどもあるため、将来の輸送力増強をするにあたってボトルネックになるとされていました。 

 そのため、交流電化の延伸に際して、敦賀駅−今庄駅間を新線に切り替えて、木の芽峠の下に長大なトンネルを掘削して輸送力増強に備えることになったのです。こうして完成したのが北陸トンネルで、その開通に備えて新たな交流電機が開発されました。 

 これが国鉄初のF級交流機であるEF70形と、シリコン整流器を搭載したED74形でした。EF70形は主に勾配のある北陸トンネル区間を、ED74形は平坦区間を分担する計画でした。 

 しかし、北陸トンネル区観葉と平坦区間用で機関車を使い分けるのは必ずしも得策ではないことと、強力なF級機であるEF70形であれば、ED74形の運用をカバーできること、将来にさらなる輸送力の増強を迫られた時、ED74形は早々に使い勝手が悪くなり余剰化することが懸念されることなどから、ED74形は僅か6両で製造を打ち切り、その後の増備はEF70形に絞られていくことになりました。 

 日本海縦貫線は、関西地区から青森までの日本海沿岸を結ぶもので、北陸本線信越本線羽越本線、そして奥羽本線を合わせた総称を指しています。そして、交流20,000V60Hz区間と、直流1,500V区間、そして交流20,000V50Hz区間と、国鉄が使うすべての電源方式があるため、それぞれ交流機と直流機が少なくとも2回の付け替えが必要でした。しかし、機関車の付け替えには線路などの地上施設や、連結開放をするための操車掛などの人員、加えてそれぞれの機関車を検修するための検査掛といった車両関係の職員とそれを実施する運転区所が必要になるため、運用コストの面では非常に不利な状況でした。また、付け替え作業のために運転停車が強いられ、その作業時間も合わせると到達時間は長くならざるを得なくなり、これら3電源を通して運用できる電機の登場が待たれました。 

 

北陸トンネル開通に備えて貨物用機として開発されたEF70形は、交流機で数少ないF級機として重量の重い貨物列車をはじめ、寝台特急などの高速客車列車の先頭に立つなどの活躍をした。しかし、日本海縦貫線は直流1500V〜交流20,000V60Hz〜直流1500V〜交流20,000V50Hzと電源が目まぐるしく変わるため、その度に機関車の付替えが必要になるなどの課題があった。これらすべての電源に対応した万能機ともいえるEF81形が登場するとEF70形は持て余され、最後は余剰車としての扱いになっていった。そこで、九州のED72形、ED73形の老朽置き換え用として活用することになり、遠い西の地である門司に配転となった。(©spaceaero2, CC BY 3.0, 出典:Wikimedia Commons)

 

 すべての電源方式に対応したEF81形が登場すると、早速日本海縦貫線で運用されることになり、徐々にその範囲が広くなっていきました。中には寝台特急日本海」のように、大阪駅から青森駅まで機関車の付け替えをせずにロングランする運用も出てくると、交流60Hz区間だけしか運用することのできないEF70形は、増備がつづくEF81形の前にその座の一部を明け渡して余剰化していく車両も出てきました。 

 しかし、製造から年数の経っていないEF70形を廃車にすれば、会計検査院から「無駄遣いだ」と指摘され、最悪の場合は国会で追求を受けることになりかねませんでした。 

 そこで、国鉄はEF70形の増備で余剰となったED74形と、EF81形の増備で余剰となったEF70形を活用するため、寒冷地仕様などの装備を一部撤去し、豪雪地帯から温暖の地である九州へと異動しました。 

 しかし、EF70形、ED74形ともども軸重が重いために線路規格の低い鹿児島本線熊本以南や日豊本線系統で使うことができず、ED72形やED73形、そしてED75形300番台と同じく九州北部に運用が限定されるといったことが枷になり、運用のしづらいものでした。それでもEF70形はときに寝台特急の先頭に立つ機会も多く、花形の仕業を手のすることがあったものの、ED74形はそうした機会もほとんどなく、地味な貨物列車を牽く運用をこなす日々でした。 

 九州地区の交流電機を充足させることを目的に、北陸では余剰となった車両の活用をもあって遠く九州までやってきたものの、こちらも中間台車を装着したことで軸重調整ができるED76形が増備されていくと、九州南部にも入れるその性能の前には使い勝手の悪さなどからもはやどうにすることもできず、結局、配転から数年も経たないうちに長期休車に追いやられ、1982年までには全車が廃車・形式消滅していきました。 

 不遇な運命を辿ったED74方はすでに別稿にてお話しておりますので、詳しくはこちらをお読みいただければと思います。また、EF70形についても、近いうちに別稿にてご紹介したいと思います。 

 

《次回へつづく》

 

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