旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 急行「かいもん」の思い出話

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 JR線上に「急行」という種別の列車が走っていたことを知るのは、恐らく私と同年代かあるいは先人の方たちだと思います。熱心に研究されている若い方たちも、そのことを知っているのではないでしょうか。

 今日当たり前のようにたくさん走っている「特急」は、厳密には「特別急行」列車のことで、「急行」列車と同じカテゴリーの列車でした。だから、その昔は文字通り「特別」な存在で、庶民の手には届かない豪奢な設備とサービス、そして速達性を兼ね備えた列車だったのです。

 ところが、昭和43年10月に行われたダイヤ改正、いわゆる「ヨンサントウ」では、特急列車が大増発され、その後もダイヤ改正の度に増発を続けます。ごく一部の人しか乗ることが叶わなかったものを、多くの本数を走らせることで、国鉄は庶民の手にも届く特急列車にしたのです。

 まあ、国鉄はなんて太っ腹なんでしょう!

 庶民の手には届かない、富裕層や特権階級のごくごく一部の人だけのものだった特急列車を、誰もが乗れる身近な存在にするなんて。

 そう思われるのも無理もありません。

 が、しかし。そんな理由で大増発をしたのではありませんでした。

 確かに当時の国鉄の輸送量は、限界に近いものがありました。が、それよりも深刻なのは財政状況で、すでに毎年膨大な赤地を生み出す状態。できれば収入を増やしたいものの、最大の収入源である運賃は簡単に値上げができないシステムだったため、ならばということで急行列車の特急への格上げと、特急列車の増発で利用者をそちらへ誘導し、特急料金で収入を得ようという目論見だったのです。

 その結果、ダイヤ改正の度に「スピードアップ」と「サービス向上」を宣伝文句に、庶民の足として親しまれてきた急行列車は姿を消していったのです。

 

 さて、筆者が物心ついたころは、国鉄も既に膨大な赤字に悩まされ、もはやどうしようもないほどになっていました。そして、かつては日本中を走っていた急行列車もその数を減らしていったので、あまり縁がないものでした。

 そのような中で初めて乗ったのが「かいもん」でした。

 「かいもん」は夜行急行で、鹿児島本線門司港駅西鹿児島駅(現在の鹿児島中央駅)を結んでいました。筆者が最初に乗った1984年頃は、12系座席車と20系寝台車による運転でした。

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 東京近郊に住んでいる筆者にとっては、客車列車といえば24系や14系で組成された寝台特急だけ。それを見たり写真に撮りたければ、東京駅などに行かなければなりませんでした。

 ところが、祖父に連れられて出かけた九州旅行で、博多で一泊するのかとおもいきや、夜になって博多駅に連れられて行き、ホームで長い時間待たされた末に乗ったのが「かいもん」だったのです。

 当時の博多駅のホームは、現在のように大都市の駅というよりは、長距離列車が発着する昭和の雰囲気を十分に残していました。
 かつてSL全盛期の時代、到着した列車から降りた人たちが洗面をするために設けられた、とても大きな水場がありました。発着する列車も首都圏育ちの筆者にとっては珍しいものばかり。久留米や大牟田、小倉や門司港といった中距離電車だけでなく、長崎や熊本まで走る普通列車もありました。

  そんな滅多に見られない列車たちを眺めているのは楽しかったです。が、20時過ぎから23時31分発の列車を待つために、じーっとホームに佇んでいるというのは、小学生にとってでもあったのです。

 まあ、旅費はすべて祖父が出してくれて、計画も祖父がしたので文句は言えないのですが、可能な限り旅費を抑えようとすべて自由席を選択したので、利用者の多い列車に乗って座るためには、こうして長い時間待つのが常套手段だったのでした。

 ちなみに祖父はといえば、ほとんどの旅費は無料でした。というのも、祖父は第二次世界大戦で南方戦線に派遣され、戦地で米軍の機銃掃射に遭って負傷し、加えてマラリアにもかかったので傷病軍人に認定されていました。そのため、戦後は国鉄線を100km以上利用する場合は、所定の引換証を駅の窓口に提出すると、無償で乗車券類が購入できたのです。(乗客が窓口で運賃等を支払うことはありませんが、厳密には国鉄やJRからは厚生労働省に請求がなされます。そのため、券面には「戦後」という表示(傷病者払い)がありました)

 ただし、この乗車券類の購入には一つだけ制限がありました。

 乗車券には制限がありませんでしたが、急行や特急などの優等列車に乗る場合は、基本的に自由席だけだったのです。指定席や寝台車に乗る場合は、自由席相当額は国が後払いしますが、差額分は利用者が支払わなければなりませんでした。
 後年、筆者が手にした社員割引(50km以上乗車船する場合、運賃とすべての料金が半額。貨物会社だったので、券面には「貨-社07」の表示)とは、条件がかなり異なりました。

 祖父は、この差額分の支払いをしたくなかったのです。

 まあ、あまり贅沢を言ってはいけませんが、せめて指定席にでもしてくれればもう少し楽だったのですが。

 そんなわけで、3時間以上もホームで待つのはまさに「気力、体力」そして、座席を確保できるかは「時の運」だったのです。ですから、赤い機関車に牽かれてやってきた、ブルーの車体に塗られた列車が来たときには、それはもう興奮したものでした。

 ホームには、駅員が「かいもん」の到着を告げる放送をする中、ようやく列車に乗れると喜んだのも束の間、何と寝台車ではなく座席車だったのには、少々ガッカリしたものでした。

 とはいえ、生まれて初めて乗る客車列車に期待と興奮を抱きながら乗り込んでみると、さらにガッカリさせられました。座席は急行形電車と変わらぬボックスシート。おまけに、乗ったのはスハフ12で、床下からは発電用のディーゼル発電機が発する騒音と振動がすごかったのです。
 DMF15HS-Gが発する「ガラガラガラ」というと音と、それに伴う足下が痺れるような振動に、こんなに音がうるさく震えるようでは今夜は寝られそうにもないと、諦めるほかないような状況だったのです。

 この日は春休みシーズンだったので、増える乗客に対応するために、臨時に増結をしていたのでした。そのおかげか、増1号車と増2号車が鹿児島方に連結されていたので、車両を移って事なきを得たのでしたが、まだ小学生だった筆者にとっては「寝られない」=「死活問題」だったのでした。

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▲1985年当時の急行「かいもん」の編成。

 さて、この頃の「かいもん」は、先にもお話ししたように12系座席車+20系寝台車の組み合わせ。12系はともかくとして、20系は「走るホテル」などとも言われ、かつては寝台特急として華麗なる活躍をしましたが、後継となった14系や24系と比べると、接客設備はかなり見劣っていたようでした。

 国鉄の分割民営化が具体化し始める頃には特急としての運用を14系や24系に譲り、一部の寝台急行や夜行列車に連結されていた10系を置き換えました。過去の栄光とは裏腹に格下げされ、しかも2~3両程度に切り分けられて、細々とこうした座席車との混結状態で晩年を過ごしていたのでした。

 12系の自由席に乗り込むと、「かいもん」は深夜の鹿児島本線を南下していきました。見知らぬ名前の駅を次々に通過していき、途中の鳥栖や久留米、大牟田あたりまでは覚えていましたが、さすがに睡魔には勝てず座ったまま寝てしまいます。

 ところが、どこの駅だったかは覚えていませんが、はっと目が覚めると列車は停まっていました。かなり長い時間停車していたので、当時の時刻表を見ると八代だったと推測できます。

 真っ暗闇の中、ホームに出てみるとしとしとと小雨が降っていました。

 新幹線で博多に着いたときには晴れていたのが、まるで嘘だったように天気が崩れていました。筆者は小雨が降る深夜のホームを歩いて行き、最後部に連結されていた寝台車を撮影したのが、前掲の写真だったのです。

 当時、一眼レフなんて高価なカメラは高嶺の花。祖父から借りていたコンパクトカメラでストロボを焚いて撮ったので、いま見てもなんてひどい写真なんだろうと苦笑いをしてしまいますが、それでも貴重な一枚です。

 車窓はすべてカーテンが閉まり、寝台車の乗客たちはみなベッドで横になって、ぐっすりと寝ているんだろうなあ、なんてことを子ども心に羨ましがったものです。

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 もっとも、後になって20系の寝台は、寝台幅は僅か50cm。3段式寝台なので、天地方向の寸法も少なく、体を休めてぐっすりと寝るというにはほど遠い代物だと知ると、この時は座席車でもよかったんだと妙に納得しています。

 やがて座席に座って、うたた寝をしては目を覚ますなんてことを繰り返しながら、朝の西鹿児島駅に着くと、これまた睡魔との闘いでした。

 こうして、夜行急行「かいもん」の旅を終えることになりますが、今となってはいい思い出になっているので、筆者にとっても「かいもん」は思い入れの深い列車でした。

 

 が、実はこれで「かいもん」の思い出は終わらなかったのです。

 この年から10年も経たない、1991年に再び「かいもん」に乗る機会がありました。

 それのお話は、次回にしたいと思います。