6.青函トンネル前史
6-5 青函トンネルの建設
一隻の犠牲者としては、国内で今なお最大である1155名の犠牲者を出した、洞爺丸事故は国鉄だけではなく、日本中を震撼させるとともに、あのタイタニック号に次ぐ惨事に世界中も衝撃を受けました。
天候で運航の見合わせによる遅延が常態化し、果ては欠航になると陸上の鉄道にまでその影響を及ぼす船舶による本州ー北海道間の連絡輸送は、この事故を契機として鉄道による一貫輸送の実現へと大きく動き出しました。
青函トンネル建設構想です。
戦前からも青森ー函館間のトンネル建設は構想としてはあったようですが、山陽本線の下関ー門司間の関門トンネルととは異なり、津軽海峡は最も狭いところでも50km以上の距離があることや、津軽海峡自体が最大水深450mもあり、さらには津軽海峡には日本の領海とはならない公海もあることなど、建設を実現するには様々な課題を解決しなければなりませんでした。
そのため、戦前は構想止まりで具体的に進展することはありませんでした。
しかし、洞爺丸事故によって状況は一変してしまいます。何より、多くの犠牲者を出したことにショックを受けた国民、とりわけ北海道を故郷とする人々は青函トンネルの建設を強く望むようになります。そして、政府もまたこのことに大きな衝撃を受け、青函トンネルの実現に向けて動き出すのでした。
(©Bmazerolles / CC BY-SA Wikipediaより引用)
こうした経緯もあり、事故の翌年1955年には、青函トンネル建設を具体化させる「青函隧道建設技術委員会」が発足、7年後の1961年には建設に着工しました。
しかし、その建設は非常に困難が伴いました。
事前に深海調査船で掘削を予定していた場所の地質については調べていたものの、実際に掘削を始めると思いのほか軟弱な地質だったため、掘れば水が出てきてしまい思うように進まない、といったのが現実だったといいます。
はじめはトンネルボーリングマシンを使えば難なく掘り進めることができるだろうとしていたのが、相次ぐ出水でそれもできなくなってしまったのでした。そのため、月に100mも進むことができないほど、効率は悪化してしまうことになります。
そこで、トンネル技術者たちは、新たな工法を開発しました。
本坑となるところは、水ガラスと呼ばれる液体とセメントミルクを混ぜたものを予め注入させて地質を硬くし、そこを掘り進んでいき、さらには吹き付けコンクリートで坑内を固めるという方法によって工事が進められたのでした。
もちろん、この工法が開発されて作業効率が向上したとはいえ、異常出水には悩まされ続けたのでした。時には作業にあたる工事関係者に犠牲者が出るときもあり、同じ海底トンネルである関門トンネルとは比べものにならない難工事となってしまいました。
青函トンネルはいきなり本坑と呼ばれる、トンネル本体部分を建設したのではありませんでした。最初に調査杭と呼ばれるトンネルを掘り、次に先進導坑、工事杭、そして本坑の順で掘られていきました。
そのため、先進導坑の着工は1970年、本坑の着工は1971年と、着工から既に10年が経っていましたが、青函トンネルは国を挙げてのプロジェクトだったので、難工事を理由に計画を放棄することはありませんでした。
1976年には吉岡作業坑と呼ばれる所で異常出水が起こり、最大毎分85トンという大量の水が出ました。そのため、作業坑は完全に水没し、水が他へ波及するのを防ぐ防水扉も突破されるなど、掘削作業が完全に止められるなどの困難に見舞われました。
排水をするも異常出水は改善されないため、やむを得ずこの箇所については閉塞し放棄し、出水箇所を迂回して掘削が進められました。この出水では、なんと168日も作業が止まるなど、計画を大きく遅らせる要因の一つとなりました。
このような困難を乗り越え、着工から既に22年が経った1983年には、先進導坑が本州側と北海道側がつながります。同時にトンネル内に軌道の敷設工事も始められました。
そして、1985年には本坑も本州側と北海道側がつながり、ようやく1本のトンネルで本州と北海道を繋ぐことができたのです。
(©Evgeny Fedorov / CC BY Wikipediaより引用)
軌道敷設工事や電路設備工事を続けますが、この間にも国鉄は膨大な債務に苦しむことになります。通勤五方面作戦や動力近代化計画、さらには新幹線の建設などなど相次ぐ設備投資を続けた結果、それはもはやどうしようもないほどに膨れあがりってしまいます。加えて、モータリゼーションの進展によって、鉄道から自動車にシャアを奪われてしまい、労使関係の極度な悪化によるサービスの低下、相次ぐ運賃の値上げなどもあり、債務の返済は不可能なまでになってしまいます。
国鉄が構想し建設が始められた青函トンネルは、1987年4月に国鉄が分割民営化されたことで、その所有はJR北海道に引き継がれることが決まりました。洞爺丸事故以来、国鉄が長年の悲願としてきた青函トンネルによる青函間の連絡鉄道は、その手で成しえることは叶いませんでした。
皮肉にも、青函トンネルは分割民営化から僅か7か月後に開通、上野から札幌まで直通する豪華な設備を誇る寝台特急「北斗星」が華々しくデビューし、従来は大阪と青森間を結んでいた「日本海」は、青函トンネルを通過して函館まで運転区間が延長され、多くの人々で賑わうようになりました。