旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

西武鉄道「サステナブル」車両の導入候補決まる 歴史を乗り越えた【2】

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《前回のつづきから》

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 戦前から戦後間もない頃まで、芦ノ湖の遊覧船事業は西武グループの駿豆鉄道が一社で担っていましたが、1950年になると箱根方面への観光輸送に力を入れていた小田急電鉄箱根登山鉄道は、芦ノ湖の湖上航路を運営する会社として芦ノ湖遊覧船を設立しました。当然、それまで湖上航路を独占していた駿豆鉄道は反対しますが、駿豆鉄道は元箱根を拠点として運航していたため、箱根町や仙石原の旅館業者などにとってはメリットのないものでした。そこで、これらの有力者が有志で新たな遊覧船の運航を計画し、これを知った箱根登山鉄道小田急電鉄の資本をもって設立したのが箱根遊覧船だったのです。

 しかし、駿豆鉄道の反対などもあって、箱根遊覧船は排水量20トン未満の小型船舶で運行することを駿豆鉄道と協定を結んで、航路の開設にこぎつけたのですが、1953年の海上運送法の改正などもあって、1955年に大型船の建造認可を運輸省から得て、1956年に大型船を就航させたのでした。これを協定違反と見たのは駿豆鉄道で、運輸省の認可を運輸省関東開運局を相手取って認可取り消しの訴訟を起こしました。

 この後、芦ノ湖、バス路線などあらゆるところで両社の訴訟合戦が繰り広げられ、ことは二社間の対立や利用者の争奪戦から、国や神奈川県など行政を巻き込んだ法廷闘争にまで発展し、さらには駿豆鉄道が運営する自動車専用道路に箱根登山鉄道のバスが入れないように遮断器を設置するといった実力行使に出るなど、もはや両陣営の争いは留まるところを知らないほどになってしまいました。

 

日本でも有数の観光地である箱根の芦ノ湖には、遊覧船を運航する会社が二社ある。上は西武鉄道系列の伊豆箱根鉄道が親会社となっていた芦ノ湖遊覧船のもの。船体には西武グループを象徴する青・赤・緑のラインが引かれている。比較的小型の船によって運航されていたが、2023年に伊豆箱根鉄道から富士急行へと事業譲渡され、現在は西武の傘下にはない。(©掬茶, CC BY-SA 3.0, 出典:Wikimedia Commons)

小田急系列の箱根登山鉄道は、小田原を起点に強羅までの鉄道線と、強羅から早雲山までの鋼索線を運営する鉄道事業者だが、傘下に早雲山から大涌谷を経て桃源台までの索道線と桃源台から芦ノ湖の遊覧船を運航する箱根観光船を擁する。こちらは海賊船風の比較的大きな船によって運航されており、この遊覧船航路をもって新宿から箱根・芦ノ湖へ至る長大な小田急の観光路線を構成している。(©Suicasmo, CC BY-SA 4.0, 出典:Wikimedia Commons)

 

 このような観光開発に伴う争いは箱根山だけに留まらず、その火種は伊豆半島東部にまで及びました。

 1956年に伊豆半島東部、伊東から下田に至る新たな鉄道として、東急電鉄が地方鉄道敷設免許を申請しました。もともと、伊東−下田間の鉄道敷設に関しては、国鉄伊東線の延伸部として建設する予定だったものの、緊縮財政の影響などによって計画は頓挫していました。そこに、東急の総帥・五島慶太の伊豆観光開発構想の目玉として、国鉄の計画が頓挫していることに目をつけ、東急電鉄が新たにこの鉄道建設に名乗りを上げたのでした。

 地元にとって、伊東−下田間の鉄道建設は悲願であり、しかも、東急は地元に建設費の負担を求めず、その費用はすべて東急が負担し、着工から2年で開通させるという破格の条件でした。当然、地元の人々や財界人はこの計画に賛同し、下田町(現在の下田市)は町長以下、町が一眼となってこれを支援することを決めました。

 その計画を知った西武は、当然面白くありません。何しろ、東急の影響を大きく受けている小田急(その傘下にある箱根登山も含む)とは、箱根山を巡って熾烈な争いを展開していました。言い換えれば、西武にとって小田急は東急の陣営にあるため、大きくいえば箱根山では東急も敵だといえたのです。加えて傘下にある駿豆鉄道は伊豆半島西部に鉄道を運行しているため、山を隔てて反対側の半島東部に東急が進出してきては、自らの利権を脅かされると考えたのでした。

 伊東−下田間の鉄道敷設免許の申請から、西武側は国鉄に伊東以南の鉄道建設を働きかけるなど、政財界を巻き込んだ工作が展開されました。しかし、当の国鉄は伊東以南の鉄道建設に興味はなく失敗、西武は傘下の伊豆箱根鉄道に伊東以南の鉄道敷設免許を申請させますが、あまりに急ごしらえの申請書は不備が多く、運輸省は東急側に免許を与えました。

 こうなると、西武側の旗色は悪く、伊豆半島東部の利権は東急に握られることになります。そこで、西武は新たな鉄道となる伊豆急行線の建設予定地の一部だった下田市白浜の土地を買い占め、建設の妨害を図るという実力行使に出ました。こうなれば、土地収用が難航して、運輸省から免許の条件となった「早期着工・完工」が不可能になると考えたのでしょう。しかし、東急はそれに屈することなく、建設ルートを変えて河津駅から南に長大なトンネルを掘削し、山側へのルートを取ることを余儀なくされ、全線で海沿いを走る眺望の明媚な鉄道という構想は実現しなかったものの、途中に設けられた蓮台寺駅西伊豆方面への玄関口となり、一時は特急「踊り子」も停車するなどといった効果をもたらしました。

 

西武鉄道と東急・小田急陣営の観光地を巡る争いは箱根だけに留まらず、さらに西南方向の伊豆半島でも火花を散らした。観光地の開発を巡る利権は、当時の両陣営にとってよほど魅力的だったのか、路線バスや宿泊施設だけに留まらず、最後は鉄道の敷設でも争った。東急は国鉄伊東線と接続し下田まで至る鉄道建設の免許を申請、これを知った西武も同様に免許を申請した。しかし、準備万端で申請した東急に対し、急造の申請となった西武は旗色が悪く、運輸省は東急へ免許を交付した。これによって誕生したのが伊豆急行で、現在も東伊豆の重要な鉄道ルートとなっている。(©栗原 岳, CC BY-SA 4.0, 出典:Wikimedia Commons)

 

 また、この地域のバス路線を巡っても、両社は争いを展開しようとしました。しかし、伊豆半島全域に路線網をもつ東海自動車は、東急、西武いずれの勢力に与することをしなかったため、同社の買収を東急が画策したり、伊豆箱根鉄道は下田地域の中小バス会社を統合して伊豆下田バスとして傘下に収めるなど、その争いは鉄道だけに留まることなく繰り広げられたのでした。

 今日では考えられない企業間の争いは、「コンプライアンス」や「コーボレートガバナンス」などという言葉すらなかった時代のことで、昭和中期から後期にかけてまで、こうしたことが間々あることだったのです。

 

《次回へつづく》

 

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