旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

役割は地味だけど「花形」の存在だった電源車たち【8】

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《前回からのつづき》

 

■余剰車の荷物車から転身した異色の電源車 マニ24 500番代

 1987年の国鉄分割民営化から魔もない翌年の1988年、四半世紀強の長い時間と難工事の末に青函トンネルが開通し、この年から開業した津軽海峡線によって本州と北海道は鉄道で結ばれました。

 総延長53.85kmという長大なトンネルは世界屈指の長大海底トンネルであり、海底トンネルとしては世界一の長さと深さを誇ることは多くの方がご存知のことでしょう。このような莫大な投資と必要とするトンネルの建設は、1954年に発生した洞爺丸事故をきっかけとしていました。

 また、青函トンネル開通前は青森−函館間を青函連絡船が唯一の鉄道連絡手段であり、その輸送力は航路で運航される車両渡船の数に依存し、その所要時間も3時間50分もかかることから、本州−北海道間の人流、物流ともにボトルネックとなっていたのでした。

 青函トンネルの開業によって貨物列車は車両航送のための載せ替えがなくなり、同時に大量輸送を実現させるなど大幅に改善しました。当然、この効果を旅客会社が見逃すはずもなく、1988年3月13日のダイヤ改正から上野−札幌間に寝台特急北斗星」の運行を始めたのです。

 「北斗星」はそれまでの寝台特急とは一線を画した接客設備をもたせ、またたく間に人気の列車となりました。特に個室寝台を多く設定したことは、利用者から絶大な指示を得たばかりでなく、休止や廃止が相次いでいた食堂車も連結して営業するなど、鉄道での「長旅」を十分に楽しむことができる列車となったのです。

 あまりの人気に「北斗星」は、寝台券を購入することが難しい列車の一つとなりました。そのため増発を望む声は次第に大きくなり、列車を運行していたJR北海道JR東日本はこの商機を逃さず、多客期に臨時列車を運行することでこれに応えたのです。

 「北斗星」は24系25形を酷寒地仕様に改造するとともに、接客設備も時代のニーズに合わせた豪華なものに変えられていました。しかしその数には限りがあり、列車を増発しようにも手持ちの車両で増発列車に回せるものは、従来からの開放式B寝台が中心でした。

 そこで「北斗星」の増発列車は別の愛称をつけて運行されることになり、1989年から「エルム」が登場しました。

 「エルム」の運行が始まったことで、寝台車は手持ちの開放式B寝台を使うことで解決できましたが、電源車については所要数に対して不足してしまうことから、これを補う必要に迫られました。

 国鉄時代であれば、他の区所から車両を遣り繰りして配転させたり、借金をしてでも新製したりしていましたが、民間会社になった以上、それは難しいものがありました。分割民営化されたことで24系の電源車はJR北海道JR東日本、そしてJR西日本にそれぞれ継承されましたが、いずれも必要最小限の数だけ保有していたため、手続きも煩雑になる会社間の異動は現実的ではありません。また、当時は分割民営化から間もない時期であるため、車両を新製する余裕などもなく、まして用途に限りのある客車用電源車を作るのは現実的でなかったのです。

 そこで白羽の矢が立ったのは、荷物列車としての用途を失い余剰車となっていたマニ50でした。マニ50は50系に属する荷物車で、1977年から230両以上が作られましたが、10年も経たない1986年に国鉄が荷物輸送を全廃したことで用途を失い、車齢が若く中には一度として全般検査を受けることもなく大量に廃車、そのうち63両だけが旅客会社に引き継がれていたのです。

 もっとも荷物輸送自体が廃止されていたので、これら荷物車であるマニ50は事業用代用車として継承されたのですが、多くは救援車の代用として運転区所の片隅に留置されている状態でした。しかし道路事情が改善し、万一の事故発生時には緊急用自動車に復旧用の資機材を載せて待機させるほうが合理的だったため、これら救援車代用のマニ50も余剰車となっていたのです。

 JR北海道JR東日本はそのマニ50に目をつけ、24系の電源車の増備車として改造したのがマニ24だったのです。

 マニ24は小型軽量で高効率の性能を持つ直列6気筒・排気量13リットルのDMF13Z-Gを2基と発電機からなる発電セットをかつての荷物室に設置しました。車体は基本的にはマニ50時代のもののままとし、荷物用扉はごく一部を除いて塞がれました。また、カニ24にあった冷却風取り入れ用のルーバー窓も設置されなかったので、非常に平滑な印象をもちました。

 種車であるマニ50は裾絞りのない車体だったため、マニ24もそのままとなり裾絞りのある他の客車とは車体断面に差異がありました。また、屋根はマニ50時代にAU13冷房装置を搭載することを考慮した低いものでしたが、寝台車である24系は車両限界いっぱいにまで広げた深い屋根でした。そのため、種者のままではマニ24を連結した際に、大きな違和感を与えるとして、電源用エンジンを検査時に屋根から搬出入するため、既存の車両の高さに合わせた深いものに替えられました。

 また、後位側の妻面にあった貫通扉は塞がれ、代わりにテールサイン用の小窓が設けられましたが、種車が半折妻だったこともあってカニ24などと比べて角張った印象でした。

 このようにマニ50から改造されたマニ24は、塗装も青20号地色に改められ、窓下と裾部に金色の帯が巻かれ、1989年の「エルム」の運転開始から運用に就くことになりました。

 その後はカニ24 500番代とともに、「北斗星」や「エルム」など首都圏対北海道間の寝台特急に使用され、青森・札幌方の編成端部に連結されて客車へ電源を供給する任にあたりました。

 しかし、「北斗星」の人気も徐々に落ち着き、2002年に東北新幹線が青森全線開業による並行在来線第三セクターへの移管など運行環境の変化、さらに航空運賃の自由化により大幅な割引販売が始まるなど経営環境の変化などにより、「北斗星」の需要も徐々に減少に転じていきます。

 1999年にE27系客車の登場とともに「カシオペア」の運行が始まり、2003年には「夢空間」を使用した多客臨時列車の運行が終了したことなどにより、車両の運用にも余裕が出てきたため、JR東日本保有していたマニ24 501が廃車となります。

 また、2008年から北海道新幹線津軽海峡線対応工事が始まり、工事時間を確保するため「北斗星」は2往復から1往復へ減便されることになり、さらに車両に余剰が出てきたことから、1形式1両となったマニ24は2010年にJR北海道保有していた502が廃車となり、22年の歴史に幕を閉じて形式消滅しました。

 

首都圏対北海道間の寝台特急北斗星」は、運行開始から非常に人気が高く、一時は寝台券が取りにくい「プラチナチケット」とまで言われたほどだった。そのため列車の増発をするにあたって、電源車が不足することになり、余剰となっていたマニ50を改造して登場したのがマニ24だった。種車の車体構造をそのまま活用したため、側面は裾絞りがなく、妻面も半折妻になるなど特徴の多い車両だった。側面の窓の大きさも、種車の特徴を残している。(©Rsa, CC BY-SA 3.0, 出典:ウィキメディア・コモンズ)

 

《次回へつづく》

 

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