旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 酷寒の大地で鉄道輸送を支えた立役者

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 いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。

 北海道の冬は本州以南と比べものにならないほど過酷な環境であることは、このブログでも何度かお話しさせて頂いております。北海道の中心都市である札幌でも、冬になれば雪に覆われ、しかも街中を歩いていても「しばれる」という言葉通り、寒いという一言では済まされないほど厳しいものがあります。

 筆者も随分と前のことですが、11月の終わりに北海道へ出かけたとき、身を切られるようなほど痛かったことを思い出します。場所は小樽だったのですが、日本海側に面しているので、シベリアから海を渡ってきた寒気は想像以上の厳しさでした。

 また、北海道の雪は本州のそれと比べて、質が異なります。本州の雪は水分を多く含んでいるのに対し、北海道の雪は水分がほとんどない粉状のもの。例えるなら本州の雪は「かき氷」に近く、北海道の雪は「氷の粉」といってもいいでしょう。

 そういう環境であるため、北海道に配置される車両は、そのどれもが「北海道の環境に特化した特殊仕様」となっていました。

 北海道の鉄道路線函館本線の小樽ー札幌ー旭川間と、千歳線、そして室蘭本線東室蘭以北を除いて、すべて非電化路線です。その昔は蒸機牽引の客車列車が主役でしたが、ここで運用される客車もまた酷寒地仕様でした。

 例えばスハ43系であれば、本州以南ではスハ43やスハフ42が主役でした。しかし、この客車たちをそのまま北海道へ持っていって使うとなると、冬季に車内の暖房が効かずに寒いままになってしまいます。また、旧型客車は車内の照明などは床下にある蓄電池から供給されますが、これを充電するための電力は車軸発電機と呼ばれる小型のオルタネーターを使います。そして、走行エネルギーをオルタネーターへ伝えるのはゴムベルトを使いますが、北海道では凍結して切れてしまう可能性もあるのです。

 北海道用として用意されたのはスハ45とスハフ44でした。窓は二重窓になり、車内の保温性を高めています。そして、暖房装置も強力なものを装備しました。車軸発電機はベルト駆動式から凍結や破断の心配が少ない歯車式を装着するなど、まさに酷寒の大地で使うことを前提とした仕様になっていました。

 動力近代化と無煙化の推進により、蒸機列車から気動車に変わっても、その設計思想は変わりませんでした。

 一般形気動車であるキハ20系も、当初は温暖地仕様に準じたキハ21が配置されました。客室の窓は二重窓で、床下機器も耐寒耐雪仕様になりましたが、側扉はキハ20と同じ位置にあるデッキなしで、暖房装置もキハ20と同様のものが装備されていたので、冬季の保温性に難があり、利用者の評判は芳しいものではなかったようでした。

 そこで、本格的な酷寒地仕様へと設計変更して誕生したのがキハ22でした。

 

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 キハ22はご覧の通り、客用扉を車端部に移動させデッキつきとしました。デッキがあるということは、客室内と隔てられているので、駅などで停車中に扉が開いても、外気が客室内に入ってきにくくなります。その分だけ、客室内の温度を下げずに済むので保温性も向上しました。

 客室窓はキハ21では所謂「バス窓」と呼ばれたスタンディングウィンドウと開閉可能な窓を二重窓化したものでしたが、窓が広いということは開口面積が大きくなり、保温性を低下させてしまいました。キハ22では小型の一枚窓に変更し、開口面積を狭くすることで保温性を向上させました。もちろん、この小型になった窓は二重窓になっているので、かつての客車と同様になったのです。

 そして暖房装置もエンジンの排気熱を利用した排熱暖房から、エンジンの冷却水を利用した温水暖房へと換えられ、同時に放熱フィンの面積を増やすなどして暖房能力を高めました。加えて床面は保温性を高めるために断熱材を厚くし、木張りになるなど大きく改良が加えられました。

 床下機器にも凍結防止のためのカバーの設置や、エンジン冷却水を利用した保温装置など、徹底した耐寒耐雪仕様としたため、北海道の過酷な環境でも十分にその能力を発揮できるようになりました。

 1958年から製造されたキハ22は、北海道各地で使用されるようになり、まさに北海道のローカル列車の「顔」として活躍しました。後継となるキハ24は小数の製造に留まったので、キハ40系が登場するまではこのキハ22の独壇場出会ったといっても過言ではないでしょう。

 国鉄末期にも、キハ40の増備は続けられていましたが、やはりキハ22各地で活躍していました。筆者が最も記憶に残っているキハ22の姿は、赤字ローカル線の廃止が始められ、その第一号として廃止された白糠線でした。もちろん、この当時はまだ小学生だったので、わざわざ乗りに行くなんてことはできませんでしたが、新聞で廃止が伝えられる記事とともに、さよなら列車のヘッドマークを付けたキハ22の姿は何とも寂しく、そして今後の北海度における鉄道の行く末を暗示している気がしてなりませんでした。

 キハ22が淘汰されたのは分割民営化後。後継車両が開発されたからではなく、純粋に老朽化と相次ぐ路線の廃止、そして存続する路線での列車の削減などによって余剰化したことによるものでした。

 冬季の過酷な環境の下、北海道民の「足」としての役割を担い続けたキハ22は313両が製造され、そのうち状態が良好だった110両が1987年の分割民営化でJR北海道に引き継がれました。その後は徐々に数を減らし、1995年を最後に姿を消していきますが、キハ20系でも保存車が多いのが特徴です。それだけ北海道民にとって、生活の中に溶け込んだかけがえのない車両だったのかも知れません。

 

 今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

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#JR北海道 #国鉄 #国鉄形車両 #キハ22