旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

EF510 300番台の増備で置き換えが確実になった九州の赤い電機の軌跡【15】

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《前回からのつづき》

 

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 1973年から製造された1000番台第2次車は、基本的には0番台第5次車とかわらないものの、高速列車用の機器を装備したことで区分されました。ただし、この頃になると20系客車はほとんどが寝台特急から退いていき、これを牽く機会も減少したため、KE59形ジャンパ連結器は省略されました。

 ED76形の最終増備車となる1000番台第3次車・1015〜1023号機は、車両番号標記がステンレスエッチングのブロック式ナンバープレートになり、特に鹿児島地区で運用することを想定していたため、桜島の噴火時に起きる降灰によって動作不良を防ぐ目的から、運転台側面の窓がアルミサッシに変更され、主電動機もMT52B形になりました。

 

寝台特急はやぶさ」を牽くJR九州所属のED76形66号機と、それを退避しているJR貨物所属のED76形1012号機。前者は基本番台で後者は高速仕様の1000番台だが、形状は大きく変わらない。しかし、1000番台は10000系貨車や20系客車を牽くための、電磁ブレーキ回路を装備しているため、スカート部にその回路を構成するためのジャンパ連結器が設置されているのが違いである。(写真AC)

 

 こうして続々と増備されたED76形は、中間台車による軸重調整機能で九州各地の電化区間筑肥線直流電化区間を除く)すべてで運用ができる、まさにオールラウンドプレーヤーとして重宝され、その地位を確立していきました。それとは対称的に、先人である九州電化の草分け的存在だったED72形とED73形は、水銀整流器に起因する不安定さと扱いの難しさから淘汰の対称になり、シリコン整流器への交換工事を施工された車両も、連続格子制御をもたないことからこれもまた淘汰されていく運命を辿ったのでした。また、北陸から余剰となって輸送力増強の助っ人としてやってきたEF70形とED74形も、線路規格が低い線区へ入線できないという運用上の制約が嫌われて、転入後数年も経たずして休車に追い込まれ、ED76形が出揃い安定的な走りを見せるようになると、やはり廃車の運命を辿っていきました。

 先輩たちがリタイヤし、あるいは舞台から降ろされ追いやられていったのを横目に、一般客車による普通列車や急行列車から、重量の重い貨物列車、果てはARBEという特殊なブレーキを装備した20系客車による寝台特急、さらには凋落する貨物輸送の起死挽回の切り札である10000系貨車にとる特急貨物列車までは、幅広く活躍することになりました。

 特に花形の仕業である寝台特急、すなわちブルートレインの牽引では、電化された日豊本線への入線も可能にしました。東京からはるばるやってくる「富士」は、当時として日本で最長距離を走る列車で、その先頭に立つ姿は多くの人に見られることになり、そして記録として写真に収められています。

 九州の西海岸、鹿児島本線でも熊本以南に乗り入れることができるようになり、「はやぶさ」の先頭にも立ちました。ARBEブレーキを装備したため、牽引する機関車が限定された20系客車を使用した列車では、高速列車用の装備をもった1000番台が運用に就き、多くの旅行客を運んだのでした。

 一方、貨物列車でもED76形は活躍しました。博多港で水揚げされた鮮魚類を載せ、2日後には東京市場のセリに間に合うという当時としては驚異的な速さを誇った特急貨物列車にも、ED76形が投入されます。電磁自動空気ブレーキと、貨車としては異例の空気ばね台車を装着した10000系貨車もやはり、高速列車仕様の1000番台を中心に運用に就き、多くの人々の生活に欠かせない物資の輸送に活躍しました。

分割民営化後も、JR貨物所属のED76形1000番台は、配管や配線、主要機器などを交換あるいは徹底した整備するといった更新工事を施して運用が続けられた。特に1000番台は車齢が浅かったこともあって、全車が2000年代に入っても運用が続けられた。(写真AC)

 

 加えて、未だ残存していた一般形客車による普通列車にも、ED76形は活躍の場としていました。特に冬になると暖房用の高圧蒸気を客車に送り込むため、搭載している蒸気発生装置から白い水蒸気を吐き出す姿は、ED76形の持てる力を遺憾なく発揮したものといえるでしょう。

 しかし、こうした活躍も長く続くことはありませんでした。

 ED72形やED73形などが姿を消していった一方で、肝心なED76形が牽く列車も減少の一途を辿り始めました。そもそも、九州の特に北部には数多くの炭田があり、ここから産出された石炭を輸送する貨物列車が数多く運行されていました。しかし、1970年代終わり頃からエネルギー政策の転換によって、石炭の需要は減っていき、炭鉱は相次いで閉鎖されていきます。肝心な大口顧客である炭鉱の閉鎖は、鉄道にとっては大きな痛手になり、牽くべき列車も減っていきました。加えて、石炭を含めて国鉄の貨物輸送も年を追うごとに減少していき、1984年の「ゴー・キュウ・ニ改正」では、ヤード継走輸送方式の前面廃止とともに、車扱貨物の取り扱いも大幅に削減されてしまいました。

 さらに客車列車も旧型客車の老朽化や、電車化や気動車化が進められたこと、「汽車から電車へ」の合言葉のもとで、フリークエントサービスの導入によって客車列車も減少していきました。そして、最後の頼みの綱ともいえる本州と九州を結ぶ長距離夜行列車も、東海道・山陽新幹線の博多開業を境に利用者が移転し、同時に航空機の大衆化や割引運賃の設定、安価な運賃の高速バスの台頭により、夜行列車自体の利用が低迷したことなどにより、ダイヤ改正のたびに列車そのものが削減され、ED76形の活躍の場が狭められていくようになります。

 

《次回へつづく》

 

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