旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 秩父のセメントを運んだ「テキ」【2】

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《前回のつづきから》

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 秩父セメントは、良質な石灰石が採掘される秩父山地に近い秩父市とその近傍に拠点を構えたセメント会社です。セメントの原材料となる石灰石は、秩父山地に豊富にあり、特に現在でも採掘が行われている武甲山で取れた石灰石を、同じ秩父市内や熊谷市にある工場へ秩父鉄道を利用して輸送していました。そのルーツはED16を紹介した記事でもお話した京浜工業地帯の礎を築いた浅野総一郎や、東武鉄道創始者である根津嘉一郎など当時の財閥が参加して設立した企業で、今日ではアサノセメント、小野田セメントが合併してできた日本セメント経営統合し、太平洋セメントと名を変えています。

 さて、秩父セメントが製造し袋詰されたセメントは、秩父鉄道沿線にある工場でパレットに載せられた状態で、このテキ100に積み込まれまれて、高崎線王寺駅上信電鉄南高崎駅など、近県にあるセメント会社のストックヤードへの輸送に活躍しました。

 テキ100の車体は、既にお話したように水気を嫌う袋詰めセメントを積荷とするため、有蓋車にある木製の内張りが省略されていました。かつての有蓋車は構体を除いて木板を車体外板に使っていたため内張りの必要がなく、木の柔らかい特性もあって積荷を損傷することをある程度防いでいました。

 しかし車体が鋼体化し外板に鋼板が使われるようになると、鋼板がむき出しのままの荷室では積荷を損傷してしまうようになりました。そこで、木板の内張りを施すことで木造車のときと同じように積荷を保護するようにしたのです。

 テキ100はこうした木製の内張りを省略した、鋼体の有蓋車の構造ででした。袋詰めされたセメントはパレットに載せられている状態で荷役をするため、側面はワム80000のように総開きの構造とされました。一見するとワキ5000にも見えますが、テキ100の扉は6分割された構造で、中央部の2枚が左右に開き、両側には4枚ずつの扉が配置されていました。

 車体の側板は一見するとワキ5000のようなプレス板のようですが、一体プレス整形板ではなく窓枠のように四方に構体を組み、その中に凹凸が少し深めに見えるステンレス鋼のコルゲートに近いプレス鋼板を組み込んだもので、直線的な印象を与えるものでした。

 また、台枠は魚腹形とすることで、長い車体に重量のある積荷を載せても可能なように頑丈なつくりにされています。

 台車は私有貨車では一般的なヘッデンドルフ形のTR41を装着していました。この台車は貨車としては最もポピュラーな形で、国鉄保有の貨車が次々に新開発の台車を装着していったのに対し、コスト意識が強い企業や私鉄が製作・保有する貨車は、実績があり性能も貨物輸送に十分とされたベッテンドルフ形台車が好んで使われていました。しかし、この台車は安価であるというコストメリットに対して、走行性能は旧態依然としたままで最高運転速度は75km/hであるなど、運用に制限が付きまとっていました。

 

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テキ100が装着するものと同じ、トキ500が装着しているTR41台車。スリーピース一体鋳鋼台枠のヘッテンドルフ台車であり、古くから国鉄貨車に用いられる2軸ボギー台車として採用されていた。ただ、走行性能は最高でも75km/hに留まり、輸送力増強による高速化が貨物列車にも求められるようになると、国鉄は高速走行に対応できる貨車用の2軸ボギー台車を開発し国鉄保有の貨車へ装着していった。一方で私有貨車の多くはこのTR41や、その改良形であるTR209などを好んで採用していた。これは、高速走行に対応した台車はTR41に比べて高価であり、費用対効果を重視する企業が保有する私製造コストの面から設計が古く性能も低いながらも、安価なTR41系列を装着していた。しかし、後年はその走行性能が仇になり、拠点間輸送方式にシフトした後はその走行性能の低さが顕著になり、電車や気動車の高速化によってダイヤ組成上のネックとなる遠因になったといえる。(TR41 秩父鉄道車両公園 2014年9月16日 筆者撮影)

 

 もっとも、テキ100が登場した1959年当時は貨物列車もその程度の速度で十分実用できたいたのでさほど問題にはされなかったようです。しかし、貨物輸送のシェアをトラックに奪われ顧客が離れていくなど、鉄道貨物輸送を取り巻く状況が厳しくなると、もはや75km/hで満足することはできず、列車の高速化が大きな課題でした。また、旅客列車も客車列車から電車や気動車に代わっていくと、当然、これらの列車の運転速度も向上し、75km/hでノンビリと走る貨物列車はダイヤ編成上のネックになっていったのでした。

 テキ100は秩父鉄道に車籍を置く「私鉄の貨車」でした。実質は専ら秩父セメントが使用する車両でしたが、秩父鉄道線内だけの輸送ではなく国鉄線へ直通するため、形式番号の下には国鉄直通運用の認可を受けた二重線が引かれていました。私鉄籍であるため、形式番号の他に保有者を表す社紋と略称も描かれ、国鉄線内を走行するときには容易に識別ができました。

 

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現役を退いた後も、秩父鉄道本線三峰口駅脇に設けられた秩父鉄道車両公園に保存展示されていたテキ117。全体的に角張ったデザインであるが、後継となるテキ200も同様であった。製作の目的は秩父鉄道線沿線に工場がある秩父セメントが生産する袋詰めセメント輸送であるため、車籍こそは秩父鉄道にあるが保有秩父セメントであったいう。後継となるテキ200も製造されたが、こちらは同じ用途で、製造・保有秩父セメントであったが、どういうわけか国鉄に車籍を置く私有貨車となった。もっとも、その用途は大きく変わることはなく、テキ100が秩父鉄道車籍、テキ200が国鉄車籍と異なる理由は定かではない。秩父鉄道に車籍を置き、国鉄線へと乗り入れる運用のため、形式番号の下には直通認可をうけた証である二重線が引かれている。(テキ117 秩父鉄道車両公園 2014年9月16日 筆者撮影)

 
 

 

 後継となるテキ200が1963年に製造されましたが、こちらは国鉄に車籍を置く私有貨車として登録されました。そのため、国鉄の規則に則り、保有する会社名と社紋、そして後年には積荷となる専用識別である「袋詰セメント専用」と書かれていましたが、テキ100にはそのような標記はなかったのです。

 秩父鉄道沿線にある工場から出荷される袋詰セメントを輸送しましたが、やがてセメントはホッパ車によるバラ積み輸送に切り替えられることになり、テキ100は後継のテキ200ともども活躍の場を徐々に失っていきました。

 1984年11月までにテキ100は廃車となりました。恐らくは国鉄の貨物輸送大整理として行われた1984年2月のいわゆる「ゴー・キュウ・二改正」の影響を受け、セメント輸送も拠点間輸送へシフトしたこと、さらにセメント会社の合理化による影響を受けたと推測できるでしょう。

 廃車後、意外にも多くのテキ100は解体を免れました。今日も秩父鉄道武州原谷駅武州河原駅に留置され、倉庫として使われているようです。写真のテキ107も解体を免れた1両で、三峰口駅に設けられた秩父鉄道車両公園で展示されていました。しかし、露店展示であることで老朽化も進んでしまったため、他の展示車両ともども2020年に解体撤去されてしまいました。

 かつてのセメント輸送を伝える貴重な存在でしたが、それも過去帳入りとなってしまったのは残念なことです。しかし、21世紀も半ばに差し掛かる頃までその姿をもって、貨物輸送の歴史を伝え続けたことは大いに評価されることと思います。

 

 今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

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