旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

貨物列車の最後尾を飾った有蓋緩急車たち【4】

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《前回からのつづき》

 

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■再び積載量を増したワフ29000

 戦後になって製造されたワフ22000は、車掌室重視の設計だったため、積載荷重は2tに抑えられ、貨物の積載量は小さいものになりました。乗務する車掌にとって、ワフ22000はありがたい存在でした。その一方で、営業サイドからすれば積載量の小さいワフ22000は厄介な存在だったと考えられます。

「戦時中のワフのような車両は、乗務する車掌にとって劣悪な労働環境はとんでもない存在だ」

「いや、営業からすれば、こんな貨物を載せられない車両は冗談じゃない。もっと、貨物を載せられるようにするべきだ」

 などというやり取りがあったかは定かではありませんが、いずれにしても、乗務員サイドと営業サイドでの意見の相違はあったことは事実と言えるでしょう。

 そうした中で、1954年から製造が始められたワフ29000は、再び貨物の積載量を重視した設計になりました。もっとも、戦時中のワフ25000のような狭さの車掌室にしようものなら、乗務員からクレームが上がるのは避けられないので、多少なりとも車掌室の広さを確保した折衷案的な設計になりました。

 有蓋室の積載荷重は7tとされ、ワフ22000よりも5t増やされました。床面積は9.7㎡、容積は21.3立方メートルと、現代の12ftコンテナ並以上の積載量を実現させました。一方で車掌室の広さを確保することにも苦心したようで、床面積は5.6平方メートルを確保し、一定の居住性を保つことができました。車内には後方を向いた執務机と椅子が1組置かれ、その反対側にはワフ22000と同じ幅520mm、長さ1,820mmの休憩用長椅子が設けられましたが、残念ながらストーブの設置は見送られたため、冬季の乗務は再びワフ25000と同様に厳しいものがあったといえます。

 これだけの積載量と車掌室を確保するために、デッキは廃止されて、車内への出入りは側面の開き戸からステップを登る形に戻されました。

 ところが、ワフ25000の近代化改造によってワフ35000が出揃った1966年になると、ワフ29000の車掌の乗務環境の悪さから、ワフ25000と同様の近代化改造が実施され始めました。これは、ワフ29000が製造された1954年の翌年から製造が始められたワフ29500が貨物の積載量、車掌の乗務環境ともに満足する有蓋緩急車の決定版となり、ワフ25000もこれと同じ設備へ改造されたことで、ワフ29000の乗務環境の悪さが目立ってしまったと考えられます。

 こうして、1966年からワフ29000は、貨物室の積載荷重が5t、車掌室はデッキ付でストーブも設置され、面積も6.73㎡の広さを確保したワフ29500とほぼ同じ車体へ載せ替えられました。こうして、ワフ29000は他の有蓋緩急車と比べて劣っていた設備を一新し、車掌の乗務環境を向上させるなどしました。同時に、走り装置も製造時の一段リンク式から二段リンク式に交換し、運転最高速度も75km/hに向上させました。その一方で、ワフ25000がワフ35000へ形式が変えられたのに対し、ワフ29000は近代化改造を施工されたあとも形式変更はありませんでした。

ワフ29000の形式図。ワフ22000は車掌室の面積を広く取り、車掌の乗務環境を改善したが、貨物室の積載荷重は2トン留まったため、特に列車定数に余裕のない地方線区では、できるだけ多くの貨物を輸送するのには役不足だった。そのため、ワフ29000は積載荷重を増やしながらも、車掌の乗務環境をある程度確保する「折衷的」な構造となった。図面を見ても、3分の1を車掌室に充ててはいるが、ストーブが未設置になるなどしたため逆戻りした感も拭えない。(出典:国鉄貨車形式図 1975年 日本国有鉄道

 

■ワフの決定版、真打ちワフ29500

 有蓋緩急車は、これまで紹介してきたように貨物室と車掌室のどちらを広くとるかのせめぎあいの歴史でした。貨物室を広く取れば車掌の乗務環境が悪くなり、乗務員から改善を要求される。車掌室広く取れば貨物室の積載量が小さくなり、営業側から扱いづらいと言われる始末で、これのいたちごっこが続いたのです。

 しかし、操車場間を結ぶ本線系統の貨物列車であれば、車掌車を連結すれば済みますが、支線区などでは連結両数に限りがあるので、可能な限り貨物を載せることができる車両として、有蓋緩急車は重宝されてきたのです。そのため、どちらの要求も両立させることができる車両が求められ、国鉄もそうした車両の開発をしたのでした。

 1955年から製造が始められたワフ29500は、まさにそのコンセプトを具現化した有蓋緩急車の決定版ともいえるものでした。

 貨物室は積載荷重を5tに設定し、床面積を15.05㎡とするなど、前形式であるワフ29000よりもわずかに小さくしました。その一方で、車掌室は床面積を6.73㎡を確保し、ほかの車掌車と同じデッキ付となりました。

 車掌室の車内は一人乗務を前提としていたことから、執務用の椅子と机は1組が貨物室を向く方向に設置され、幅520mm、長さ2980mmの休憩用長椅子も設けられました。そして、冬季の乗務にも考慮してストーブが設置されるなど、同時期に製造されていたヨ5000やヨ6000といった車掌車と同等の設備を有し、車掌の乗務環境を大幅に改善させることができたのです。

 ワフ29500は1955年から1961年にかけて、全部で650両が製造されました。営業と乗務員の両方の意見を取り入れた、有蓋緩急車の決定版となり、この構造はワフ25000とワフ29000の近代化改造という形で、同じ車体をもつ車両が合計で1,594両に上り、全国の国鉄線上で見かけることができるワフの標準車となったといえます。

ワフ29500の形式図(出典:国鉄貨車形式図 1975年 日本国有鉄道

有蓋緩急車は貨物を多く載せるか、それとも車掌の乗務環境を確保するかのせめぎ合いの歴史とも言える。こうした試行錯誤を繰り返した末に登場したワフ29500は、有蓋緩急車の決定版といえる構造をもっていた。車掌室は一定の広さをもたせ、ヨ5000以降の車掌車と同じくストーブも設置された。ワフ22000までは2人乗務を前提としていたが、ワフ29500では1人乗務を前提としたことで、暖房などの器具を設置できたといえる。一方、貨物室も車両の半分の面積を確保し、積載荷重も5tとある程度載せることを可能にした。この構造は、ワフ25000などの近代化改造においても踏襲されたため、末期は多く見ることができる有蓋緩急車のスタイルだった。(ワフ29984〔札ヒム〕 小樽市総合博物館 2016年7月25日 筆者撮影)

 

 これら、貨物を積み、車掌も乗務するワフは、国鉄の貨物輸送に大規模合理化というメスが入る1984年のダイヤ改正まで運用され続け、筆者も新鶴見操車場で仕分けられたり、品鶴線を走ったりするワフの姿を数多く見たものです。特に夜間に列車の最後尾に連結されたワフは、白熱灯の薄暗い明かりのもとで窓越しに列車掛が一人で乗る姿は、どことなく哀愁を感じてしまったものです。そして、最後尾であることを示す後部標識灯の赤い光は、徐々に小さくなっていくのを見届けながら、一体どこへ行くのだろうかと、その行き先を考えると勝手にワクワクしたものでした。

 1984年のダイヤ改正をもって、有蓋緩急車はすべて運用を廃止され、その役目を終えた数多くのワフたちは余剰車として廃車の運命を辿っていきました。それからもう間もなく40年の月日が経ち、貨物列車の最後尾には車掌車か緩急車が必ず連結されていたことを知る世代は徐々に減り始めていますが、その果たした役割は事故時の列車防護、ブレーキの緩解試験、列車の監視業務と、当時として安全輸送の一端を担った車両だったことは間違いないでしょう。

 

《次回へつづく》

 

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