旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 西鉄時代の面影を残す広電3000形【2】

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 《前回からのつづき》 

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 西鉄北九州線ですが、筆者が門司にいた1991年当時はまだ現役でした。現役と言っても、翌1992年に砂津ー黒崎間が廃止になってしまったので、既に実質的な廃止直前の頃と言ってもいい頃でした。

 そもそも西鉄北九州線は、1911年に小倉電気鉄道の手によって開業しました。翌1912年には門司(といっても、国鉄→JRの門司ではなく、門司港駅付近にある旧門司と呼ばれる門司区の中心部にあった電停。ちなみに、国鉄駅としての文字がある場所は「大里(だいり)」と呼ばれている)から小倉を経由して折尾まで全線が開業したのでした。

 北九州本線は29.4kmと、路面電車としては長距離の路線でした。しかも途中には門司と小倉を隔てる手向山(たむけやま)があり、ここをトンネルになっているとはいえ、ある程度の山越えもしなければならないという、路面電車といえども起伏も激しい路線でした。

 第二次世界大戦が終わり、モータリゼーションが進行すると、それまで市民に親しまれていた路面電車は、逆に邪魔にされる存在になってしまいました。路面電車が増加の一途をたどる自動車の波に飲まれ、定時性の確保どころか身動きすらままならない状態になり、渋滞を引き起こす元凶と見られるようになったのです。この要因には、それまで路面電車が走っていた併用軌道内を自動車が通行することが禁じられていたのが、その増加に対処しようと「軌道敷内通行可」と交通規制が緩和されてしまったこともその一つでした。

 こうして、路面電車は次々と廃止されていく中で、門司市小倉市戸畑市八幡市若松市が合併して誕生した北九州市は、政令指定都市となっても、西鉄北九州線は一部を廃止したものの存続したのでした。

 これには、様々な理由があり、北九州市八幡製鉄所という日本でも有数の製鉄所を抱え、ここで働く人々にとって北九州線は重要な通勤の手段でした。高度経済成長期に入っていたことも、路面電車の利用者が増加する要因となっていたため、廃止どころか少しでも多くの利用者が乗れるように輸送力の増強が求められたのでした。

 一方、モータリゼーションの進行もありましたが、これには小倉北警察署が先導し、小倉市街の自動車一方通行という交通規制を施すことで、路面電車が少しでも円滑に運転できるように行政も対策を講じたことで、次々と路面電車が廃止されていく1970年代にも、西鉄北九州線は輸送実績を伸ばし続けたのでした。

 この、輸送力増強に応えるべく登場したのが、日本で初めての三連接車という、路面電車としては破格の大型車両である1000形だったのです。

 1000型は、1953年に西鉄が輸送力増強用として導入しました。導入当初は二連接車体をもつ大型車で、12年間で64両も製造され、それまで活躍していた木製のボギー車を追い出すように置き換えていきました。二連接車体をもつため、乗客定員はボギー単車とは比べ物にならないくらいに増加し、1000型がつくられる直前まで製造されていた主力の600型でさえ定員は80人であるのに対し、1000型は130人まで増加させることができました。これだけの収容力のある車両の登場で、西鉄北九州線の混雑が緩和されたかといえばそれには及ばず、1000形をもってしても積み残しが多発するなど、輸送力に対して需要が大幅に上回っていました。それだけ、この当時の北九州市は、八幡製鉄所を中心に多くの人達で賑わっていたことの表れでだといえるでしょう。

 さらなる輸送力の増強を必要とされ、西鉄は1000形を二連接から三連接に改造をすることにしました。C車と呼ばれる中間車を製作し、A車とB車に挟み込むようにして連結させることで、定員も130人から160人まで増加させました。

 

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北九州線の1000形は、連接車としてその輸送力をもってラッシュ時に遺憾なくその能力を発揮した。しかし、利用者の最大の勤め先である八幡製鉄所の合理化と規模の縮小、さらにはモータリゼーションがさらに進行したことで、輸送量は減少の一途を辿り、その能力を発揮する場面はなくなっていった。(出典:Wikimedia Commons ©藻南官舎前, CC BY-SA 3.0 )

 

 こうして、旺盛な需要をさばくことができるようになり、600形と並んで1000形は北九州線における主力として活躍を続けるのでした。

 

  その1000形は、筆者も随分とお世話になりました。

 通勤ラッシュの時間帯に、600形がやってくるととにかく混んでいたのが、1000形なら車内にも余裕があり楽に通勤できたものです。小倉車両所の最寄りである金田電停で列車を待っていると、白をベースにした塗装の600形がやってくると、今日は座れないけど冷房がついているから快適だとか、赤色の1000形がやってくると座って帰れるなど、その時その時でやってくる電車を楽しんだものでした。

 もちろん、通勤だけではなく、休日等には小倉へと繰り出しては、砂津電停から様々な電車に乗ったものですが、多くは600形だったのが、1000形だとなぜかちょっと得した気分になりました。

 その北九州線も、1990年代に入ると既に利用者も減少していて、筆者はあまり知りませんでしたが、存廃が問題になっていたようです。確かに、言われてみると筆者が北九州線に乗って小倉車両所に通った1991年には、朝の通勤ラッシュの時間帯でも「満員」とはいえない状態だったことを思い出します。どれだけ混んでいたとしても、座席にありつくことは叶わくても、立っていて隣の人と密接になるような状態ではありませんでした。

 ボギー台車を履く単車だった600形は定員80人ですが、それを満たすほどの利用率はなかったのです。これが、定員160ににものぼる1000形はとなると、それなりに多くの人が乗っていたとしても、やはり立っていても雑誌や新聞を読むことができるほど、隣の人との距離は短くなかったのです。

 こうなってくると、北九州線最大の定員をもつ1000形は、採算を取るには難しい車両へとなっていたと言えます。事実、朝夕の通勤時間帯にこそ、1000形は活躍していましたが、日中はといえば1000型よりも600型のほうが数多く走っていたのでした。

  とはいえ、時代は平成に入っても、政令指定都市の中心地である北九州市の小倉を中心に、路面電車が往来している光景は筆者にとって驚きであり、まさかその路面電車が通勤手段になろうとは夢々思いもしませんでした。そして、1000形は最大の輸送力を発揮して、北九州市民の通勤通学、そして生活の脚として活躍していたのです。

 

《次回へつづく》