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その昔、日本の各地には路面電車が市民の足として活躍していました。人口100万人程度を超える政令指定都市の多くは、大なり小なり併用軌道が道路に敷かれ、そこには1両単車から2〜3両の連接車など、様々な路面電車が活躍していました。
多くの人に親しまれ、そして重宝されていた路面電車も、モータリゼーションの進行によって道路が渋滞する原因となり、やがて自動車にとって邪魔にされる存在となり、鉄軌道特有の運用コストの高さも財政を圧迫したため、1970年代に入る頃には多くの路面電車が廃止になっていきました。
政令指定都市で路面電車を運行していたのは、北は札幌市(札幌市交通局。後に札幌市交通事業振興公社)、仙台市(仙台市交通局)、新潟市(新潟交通)、川崎市(川崎市交通局)、横浜市(横浜市交通局)、静岡市(静岡鉄道)、名古屋市(名古屋市交通局)、京都市(京都市交通局)、大阪市(大阪市交通局)、神戸市(神戸市交通局)、岡山市(岡山電気軌道)、広島市(広島電鉄)、北九州市(西鉄北九州線)、福岡市(西鉄福岡市内線)、そして熊本市(熊本市交通局)と、実に多くの都市で運転されていました。
しかしながら、今日では札幌市と岡山市、そして広島市に残るだけになり、他はすべて廃止、路線バスに転換されていきました。
当然のことですが、筆者の住む市でも、路面電車は1960年代に廃止になっていたので、路面電車には縁のない生活で、そもそもわが町に路面電車が走っていたことなど、微塵も想像できませんでした。
ところが、高校を卒業して貨物会社に入り、入社の翌日付で九州支社勤務となり、2週間ほど門司機関区構内にある九州支社研修センターで集合研修を受けた後、最初の研修先として小倉車両所に配置になったので、支社の総務課から通勤に使う定期券が支給されました。最初は定期券を受けることに何も疑問を感じませんでしたが、やがて「JRの職員になったのに定期券?」と違和感をおぼえました。
それというのも、国鉄時代には旅客扱いを行う駅から離れた、大規模の運転区所や操車場、そして向上などには、その最寄りとなる駅から職員輸送用の列車が運転されていて、それに乗れば無料で仕事場まで行けると聞いていたからです。かくいう筆者の実家近くにあった新鶴見操車場にも、そうした職員輸送用の列車が運転されていて、日中は操車場の片隅に、たくさんの貨車に混じってクモハ12が1両だけ留置されているのを何度も見かけたことがありました。
民営化になってこ貨物会社に帰属した部門は小倉車両所と名を変えたものの、その場所は国鉄時代からあるJR九州の小倉工場(現在の小倉総合車両センター)なので、当然、ここまで職員輸送用の列車が運転されていて、これに乗ると思いこんでいたからでした。この職員輸送用の列車に乗れば、乗り換えなどあまりせずとも直接、工場の敷地に行くことができるのだから、通勤にこれ以上望むべくもない、贅沢なものになっていたでしょう。
しかし、現実はそう甘くはありませんでした。
民営化直前の頃から、こうした職員輸送用の列車は運転されなくなり、いくら職員といえども普通に通勤をするようになっていたのでした。加えて、新鶴見に配置されていたクモハ12は、17m級の旧型国電で、1両でも運用が可能でした。一方、小倉工場がある九州はすべて交流電化だったので、交直流または交流用の電車だけが走ることができます。しかし、交直流あるいは交流の電車に、1両単位で運転できるのは牽引車であるクモヤ720などごく限られた車両だけです。いくら小倉工場が大きく大勢の職員が働いていたとはいえ、職員輸送用の列車に充てる車両がなかったので、このように普通に通勤用の定期券が支給されたのでした。
西鉄北九州線の主力だった600形。もともとは、茶色系のツートンカラーだったが、その後、車体更新工事や冷房化などを経てこのような明るい塗装になった。登場時、側窓は上段下降下段上昇の二段式窓だったが、更新工事で上段固定のいわゆる「バス窓」にかわった。(出典:Wikimedia Commons ©Cassiopeia sweet., Public domain)
さて、その定期券を受け取ると、最初はJRのものだとこれまた勝手に思い込んでいました。門司から小倉を経て、南小倉まで乗るんだなどと考えていたのでしたが、実際に渡された定期券には、何やら見慣れぬ地名がずらりと並んでいたのでした。
「別院通り ー 金田 (砂津経由 バス・北九州線)」
なんだ?この地名は??などと考えていると、別院通りは筆者が生まれてはじめて一人暮らしを始めた寮の近くにあるバス停の名前で、寮の近くにある浄土真宗本願寺派の鎮西別院があるからそういう名前がついたそうで、「へえ〜そうなんだ」ぐらいにしか感じていませんでした。ここから西鉄バスに乗って、小倉に入り砂津で乗り換えるとまで聞いてから次の言葉にびっくり。なんと、砂津から金田(かなだ)までは路面電車に乗って通うというのでした。
生まれてはじめて親元を離れ、遠く1000kmも西に離れたちで、不慣れな一人暮らしをはじめて、ようやく生活にも土地にも慣れてきて、こんどは路面電車が通勤の手段になるとは、まったくもって予想外の展開でした。
《次回へつづく》
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