旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

常識を覆して「短い特急」を具現化したクモハ485【3】

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《前回のつづきから》

 

 1986年までに落成したクモハ485 100番代は、南福岡電車区に配置されて、民営化後を見据えた国鉄最後のダイヤ改正で、計画通りに熊本発着の「有明」に充てられるようになりました。ここの国鉄史上最短の特急列車が誕生することになりましたが、当時の需要に合わせた形にするとともに、福岡−熊本間の利便性向上のため列車の増発を可能にしたのです。

 分割民営化後はそのままJR九州に継承された100番代は、「有明」の運用に就いていました。しかし特急列車のサービス水準の向上を目指して、早くも1988年に「ハイパーサルーン」と愛称のついた783系が新製されると状況は一変していきます。

 それまで485系が担っていた一部の運用を、783系に置き換えて「ハイパー有明」という名称で運転されるようになりました。中でも博多−西鹿児島間を結ぶ列車で停車駅が少ない速達列車を「スーパー有明」という名称にして、民営化によって生まれ変わったことをアピールするかのように運転形態も変化していきました。

 もっとも100番代は3両編成を組んでいたので、これらの長距離・速達列車とは縁がなく、変わらず熊本発着の列車に充てられていました。一方で、国鉄末期のような需要の減少から一転し、バブル経済も相まって需要は増加に転じたため、1988年のダイヤ改正で「有明」は28往復に、1991年のダイヤ改正では32往復にまで増発され、783系の投入によって「有明」に充てることができる車両が増加したことによるメリットを最大限に活かし、100番代もその一翼を担っていました。

 

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1985年のダイヤ改正で、485系はクモハ485 0番代を組み込んだ5両編成に組み替えられたが、国鉄は分割民営化後を見据えてさらなる短編成化に取り組んだ。5両編成化で捻出されたモハ485を先頭車化改造を施して登場したのがクモハ485 100番代だった。100番代は3両編成という、485系で最も短い編成に組み込むため、0番代のようにCPとMGの設置は省略された。そのため、機器室はなく前位側には客室に続いて運転台が接続された。〔クモハ485-105〔鹿カコ〕 鹿児島中央駅 2006年10月13日 筆者撮影)

 

 また、1989年からは783系で運転される列車には、カフェテリアが設置されたことで、食堂車廃止以来9年ぶりに車内で食事が摂れるようになり、6時間近くをかけて乗車する旅行者にとってはありがたいサービスとなりました。

 実際、筆者が鉄道マンとして門司勤務時代に、博多発の「ハイパー有明」に乗車したことがありますが、その時は会社から支給された乗車票*1を利用したのでグリーン車を利用したのですが、客室乗務員*2による「おしぼり」のサービスをはじめとした様々なサービスに、国鉄から変わったことを実感したものです。特に温かい食事が摂ることができるのは大いに助かり、6時間近くの道中も苦もなく行くことができたことを思い出します。

 1992年からは「有明」と100番代に変化が見られるようになりました。この年に登場した787系は博多−西鹿児島間を結ぶ長距離型の列車を「つばめ」と改称ました。そのため、「有明」としてそれまで運転されていた列車のうち、18往復は「つばめ」となり、14往復は「有明」とされました。また、「有明」の14往復のうち、783系で運転される列車は11往復とし、485系は6往復にまで減ってしまったのです。

 100番代もこうした流れの中で「有明」としての運用が減少していき、1994年には南福岡電車区から大分電車区(現在の大分車両センター)へ配置転換されました。大分電車区日豊本線の列車を担当していたので、「にちりん」での運用に就くことになります。

 しかし大分は100番代にとって安住の地とはなりえず、883系885系と相次ぐ新型車両の導入によって、波動用へ転用されたり再度南福岡へ転出、あるいは廃車になるものも出てきました。

 また、鹿児島総合車両所へ配転された車両もいました。鹿児島配置の車両も、「にちりん」や「きりしま」といった列車で運用されましたが、特に「にちりん」は鹿児島本線の「有明」に対する日豊本線の特急列車として歴史が長く、「有明」同様に食堂車が連結されていた時代もありました。しかし、鹿児島本線と比べて日豊本線は単線区間が多く、また線形も高速運転に不向きだったため、所要時間も多くかかる傾向にありました。そのため、九州北部から鹿児島へ向かうには、「有明」が第一選択となっていたので、「にちりん」は分割民営化後早々に編成の短縮化がされていったのです。

 2011年になると、九州の鉄道網は激しい変化が訪れました。九州新幹線の全線開業により、鹿児島本線の主要都市を結んでいた特急列車はごく例外を除いて博多−西鹿児島間では廃止になり、長崎方面へ向かう「みどり」「かもめ」などでの運用が残った車両以外は余剰となったのでした。当然、その余剰車は経年が浅いため、製造からすでに40年近くが経っている485系は淘汰の対象になっていきます。

 

民営化後、JR九州はさっそくサービスレベルの改善のため、783系を製作した。従来の国鉄形車両にはない半室式の客室など大胆な発想で、九州島内の特急列車は大きく変わったといえる。一方、485系にとっては783系をはじめとした新型車両は活躍の場を奪う「脅威」であったが、当初は「有明」の運転を32往復まで増やすなど、強力な助っ人でもあった。(©spaceaero2, CC BY-SA 3.0, 出典:ウィキメディア・コモンズ)

 

 100番代も大分と鹿児島で細々と運用されていましたが、783系や787系が用途を失うと、新天地を求めて大分と鹿児島に配転されてきました。その玉突きで、老兵である485系はその長い歴史に終止符を打つことになり、大分配置の100番代はDo2編成に組み込まれた102号車が2011年6月に運用を離脱し保留車となり、2015年に小倉車両センターで廃車されました。

 また、鹿児島配置の100番代は101号車と108号車がいましたが、2011年3月のダイヤ改正で運用を離脱し廃車。1986年に改造されてから20年以上もの間、九州島内の人々の移動を支えてきた歴史に幕を閉じ、同時にクモハ485 100番代は区分消滅、分割民営化後にJR西日本が改造した200番代を含めたクモハ485そのものが形式消滅したのでした。

 国鉄末期の悲惨ともいえる状況の中、需要に合わせた列車の運転を目的に、中間電動車を改造するという形で誕生したクモハ485。その中で、国鉄特急列車の歴史の中で最短となる3両編成という、かつての国鉄では考えられなかった短い列車を運転するために登場した100番代は、鹿児島本線の特急列車の増発と、適正な供給を可能にしました。

 JR九州に継承された後は、相次ぐ新型車の導入によって、活躍の場を追われていく形になりましたが、その短編成を武器に、比較的短い距離を走る特急列車や、それまで特急列車の設定がなかった線区へ進出し、速達サービスの向上に貢献しました。

 また、従来は長大編成を組むのが特急列車の常識というのを覆し、短くてもグリーン車が設定されていなくても、特急列車の運転が可能であるということを証明したのが100番代といえるでしょう。この100番代によって、民営化以後に新製される特急形電車は、柔軟な運用ができるように制御電動車を設定する系列も多くなりました。それは、JR九州だけでなく、他の旅客会社にも波及したことが、その証左といえるでしょう。

 まさに、クモハ485 100番代は、そうした先見の明のある形式だったのかもしれません。

 

 今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

*1:

国鉄時代は職員に対して勤務する鉄道管理局管内は無料で利用できる職員乗車票が、長距離(100km以上)を乗車船する場合には半額で利用できる購入票が交付されていた。分割民営化によってそれらの職員への福利厚生は大幅に変わり、旅客会社に勤務する職員は自社線内の乗車票が支給されていたが、線路をもたない貨物会社の職員にはこうした制度がなくなってしまった。しかし、国鉄時代の福利厚生制度から急激に変わったことで、貨物会社の職員への激変緩和措置により、長距離については引き続き購入表が年間5枚程度支給された。この購入票を利用することで、100km以上を乗車船する場合は、乗車券や特急券(指定席を含む)、寝台券やグリーン券までもが半額で購入できた。この制度は筆者が在籍中は続いたが、退職後しばらくすると(民営化後10年が経った頃)見直され、そうした制度はなくなってしまった。

*2:

国鉄時代には考えられなかった新たなサービスとして、783系登場時に女性の客室乗務員が乗務するようになった。今日では、首都圏のグリーン車や新幹線などでも見られるようになったが、この頃は非常に珍しかった。鉄道という仕事は「男所帯」というのが当たり前だった時代で、女性が鉄道の仕事に携わること自体が稀であったが、彼女たちのサービス水準は非常に高かったといえる。また、彼女たちの仕事に対する意識は高く、民間会社へ移行したからこそできる施策と発想だったといえる。その後、JR九州は783系だけでなく、785系による「つばめ」を運転開始させると、「つばめレディ」という名称に変えて、引き続き客室におけるサービスを提供した。