旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

常識を覆して「短い特急」を具現化したクモハ485【2】

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《前回のつづきから》

 

 485系を4M1Tで5両編成を組むのには、少なからぬ問題がありました。

 そもそも485系は長大編成を組んで運用することを前提に開発されたので、電動車はすべて中間車として設計されています。また、グリーン車は車内の静粛性を優先させるために、電動車ではなく付随車とされ、ごく初期に製造された先頭車であるクロ481を除いて、多くが中間車であるサロ481だったのです。

 12両編成のような長い編成を組むのであれば、これらのことは問題になりません。しかし、4M5Tの5両編成となると、電動車2ユニットのうち1ユニットの中の1両は、先頭車、すなわち制御電動車にしなければなりませんでした。

 しかも、グリーン車の連結も必須であると考えると、中間車であるサロ481を組み込むことはできず、これもまた先頭車にしなければなりませんでした。

 一方、短編成化によって多くの中間車が余剰となっていました。4M3Tの7両編成化されたときに、12両編成から外された中間電動車が多数外されてしまい、その後は使い道がなくなってしまったのでした。

 これを活用しない手はないと、国鉄はこれら中間電動車を先頭車に改造することにしたのです。

 1984年のダイヤ改正で余剰になった中間電動車のうち、15両のモハ485を先頭車にする改造を施しました。この改造では前位側にあった客用扉を客室を1ブロック削減した上で後位側に移設。さらに客用扉の前位側には空気圧縮機(CP)と電動発電機(MG)を設置した機器室を設け、さらにその前位側にクハ481 300番代と同じ運転台を設置する大掛かりなものでした。

 この機器室を設置したのは、5両編成で運用するときに必要な圧縮空気と電源を確保するため、その分だけ客室面積は減少し、定員も16名減ってしまったのです。それでも、当時の需要からは十分と判断されたのでしょう。

 これと並行して、サロ481の先頭車化改造も行われました。こちらは、サロ481の後位側区画を切断し、クモハ485と同様にクハ481 300番代と同様の先頭部を接合するものでした。

 クモハ485とクロ481はそれぞれ15両と同じ数が改造されたことからもわかるように、5両編成への短縮を見据えての改造で、Mc+M'+M+M'+Tscという編成を組成することを目的にしたため同数の改造になったのでした。

 1985年のダイヤ改正では、当初の計画通りにクモハ485とクロ481を組み込んだ5両編成の「有明」の運転を開始し、さらに需要に合わせた列車の設定を可能にしたのです。

 

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1984年のダイヤ改正で7両編成に短縮された際に捻出されたモハ485を、制御電動車に改造して登場したクモハ485は、5両編成に組み込まれることを前提としていたため、客室と乗務員室の間には空気圧縮機と電動発電機を設置した機器室が設けられた。大掛かりな改造内容ではあったが、一方で客室面積が減り定員も16人分減ったので、効率のよいものとは言い難かった。しかし、その効果は絶大で、分割民営化後も重宝されて2011年に運用離脱するまで、JR九州で活躍した。(クモハ485-4〔分オイ〕 2008年10月 小倉駅 筆者撮影)

 

 このダイヤ改正ではさらに余剰が出てきました。クモハ485の連結によってモハ485が、クロ481の組み込みでクハ481がそれに当たります。一方、5両編成化でも需要が低い列車向けには、さらなる短編成化も必要になったのです。

 そこで、485系の歴史の中でも最も短い3両編成化が計画されたのでした。もはや、昔日の面影もないほどなりふり構わぬ合理化は、485系の開発趣旨とは大きく隔たるものがありましたが、当時の国鉄の実態を考えるとやむを得ないものだったでしょう。

 余剰となったモハ485もまた、制御電動車に改造されます。しかし、1985年に登場した0番代とは異なる改造内容になったのです。

 1986年のダイヤ改正で登場することになるクモハ485 100番代は、熊本発着「有明」用の3両編成を組成することを目的としたので、0番代のようにCPやMGを搭載する必要はありません。加えて、0番代と同じ改造を施すと定員が少なくなってしまうので、3両編成という短編成では、ただでさえ定員が少ないところに定員が極端に少ない車両を組み込むのは得策ではないのです。

 そこで、100番代では機器室の設置を省略することにし、前位側にあった客用扉とデッキ、そして行き先表示器を後位側に移設、代わりに前位側には0番代と同じく300番代と同等の運転台と前面を設置しました。

 この改造で定員は0番代ほどは減ることはありませんでしたが、それでも先頭車化によってモハ485に比べれば減ったことは間違いありません。また、改造も新製車と同じ運転台を設置し、さらには客用扉やデッキを移設するなどその内容は多岐にわたり、相応の費用がかかったことが窺われます。今日では先頭車化改造を施すほどの大規模なものは見なくなりましたが、それでも必要であれば可能な限り費用を切り詰めることが一般的です。特に前面形状はわざわざ在来車に合わせる必要性を見いだせない場合は、かなり簡易な方法を取ることが一般的です。

 例を挙げるとJR西日本のいわゆる「魔改造」と呼ばれるのがそれで、最も改造費用を削ったクモハ113 3800番代は、中間車だった切妻構造をそのままにして、貫通扉を埋め込み、妻面に窓を設置、前部標識灯と後部標識灯、さらに補強板を増設しただけという簡易な内容でした。そのため、あまりにも簡素過ぎて評判は芳しいものではなかったと聞きます。さすがにこれより後に先頭車化改造を施すときには、ある程度、既存の車両に近いデザインにするようにはなりましたが、それでも国鉄時代のように新たに新製車と同じ形状の運転台を別に製作しておき、種車に接合するような大規模かつコストの掛かる手法は採られることはありませんでした。

 ただでさえ財政事情が火の車の国鉄にとって、コストをかけてまでこうした改造を行った理由はいくつか考えられるでしょう。一つには、国鉄自身のプライドの問題があったといえます。財政事情が枠るても、まがりなりにも国有鉄道という看板を背負っているので、中途半端な、しかも看板商品である特急列車の先頭に立たせる車両に、後年JR西日本が採ったようなバリュー・エンジニアリングの方法は考えられなかったでしょう。看板商品の先頭車が簡易な改造だけで済ませられては、ますます利用者の受けも悪くなり、ひいては国民からも国鉄は末期状態とみなされてしまうことが考えられたといえます。

 また、国鉄自身の体質として、必要とあらば債券を起こして資金を調達すればよいというものがあったといえます。毎年収益が赤字決算であったにもかかわらず、車両の置き換えは必要でした。加えて新線の開業によって新たな車両も必要だったので、当然、新車を製造しなければなりません。しかし、車両を新製できる資金には限りがあるため、それだけの予算では老朽化した車両を置き換えることも、新線開業用の車両を揃えることは難しかったのです。そこで、本予算だけでなく、鉄道債券を起こして資金を調達する債務予算と、利用債を起こして資金を調達する民有車予算で車両製造の費用を賄っていました。そうしたことが常に行われていたため、国鉄自身の感覚もコスト意識が薄らぎ、国鉄の面目が優先されたのではないかと推測できます。

 さらに、先頭形状が変わることで、運転取扱にも大きな影響が出ることが考えられるでしょう。特に特急形電車の前面形状は特異なもので、高速運転時の前方視界を確保するために、一般的な車両に比べてかなり高い位置に設けられていました。運転士は階段を昇ってから運転台に座る構造のため、形状が大きく変わることで運転操作も変わってしまうでしょう。そうなると、運転士の負担になるので、ただでさえ労使関係が難しい最中では、簡易な改造で済ますことは難しかったのではないかと推測できるのです。

 

《次回へつづく》

 

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