旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

過酷な通勤輸送を支え続け40年の功労車・東急8500系【7】

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 いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。
 まずはじめに、記事の投稿が逆になっておりましたこと、お詫び申し上げます。推敲の段階で、7番目の記事の自動投稿を取り消していましたが、8番目の取り消しをするのを忘れ・・・気づいたら、6番目の次に8番目が投稿されておりました(汗)
 この稿、7番目の記事をお届けいたしますので、お楽しみいただければ幸いです。

 

《前回からのつづき》

 

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 2003年に水天宮前−押上間が延伸開業すると同時に、それまで水天宮前−渋谷−中央林間の間をひたすら走り続けていた8500系にも大きな転機が訪れます。半蔵門線の押上延伸によって、押上以東から東武伊勢崎線が乗り入れてくることになったのです。逆にいうと、8500系半蔵門線を経由してさらに東へと足を延ばすことになり、既に車齢30年近くになる身にとっては過酷な運用が待ち構えていたのでした。

 この東武伊勢崎線との相互直通運転では、田園都市線は中央林間まで、東武伊勢崎線を経由して東武日光線南栗橋までとされ、その距離は100km近くに及ぶ長大なものとなりました。これだけの距離を走る運用に就かせることになるなど、8500系を設計した当時は誰も考えていなかったことでしょう。既に毎日のように満載に近い状態で多くの乗客を乗せ、45kmの距離を高速で走り続けていたこともあって、初期に製造された車両には老朽化の兆しも見られたでしょう。年々増加の一途をたどるため、輸送力の増強のために2000系3編成も陣容に加えていましたが、営団車も合わせても手一杯というのが実情だったことが考えられます。

 

2003年の半蔵門線押上延伸開業は、老兵ともいえる8500系にとって過酷な運用の始まりともいえた。西は中央林間から、都心の渋谷や半蔵門を経て押上から東武伊勢崎線へ乗り入れて、最北端は東武日光線南栗橋までという長距離運用が待ち構えていた。搭載機器の関係から初期車は東武へ乗り入れることはなかったが、それでも、1980年代に製造された8500系にとって、連日100km近い走行は過酷だったと想像できる。かつては「半蔵門」や「三越前」という行先表示が当たり前だったのが、今日では「南栗橋」「東武動物公園」という80年代終わり頃には想像もつかなかった表示を掲げていた。(8500系・8630F 宮崎台ー宮前平 2018年7月13日 筆者撮影)

 

 この押上延伸と伊勢崎・日光線への乗り入れでは、既に長野電鉄に譲渡されて廃車になった8601Fと8602Fを除いた8603F〜8614Fの初期車、さらに最終増備車で中間車にVVVF制御車を組み込んだ8642F、さらに5両編成で落成し大井町線に転じた8638F〜8641Fには、東武乗り入れ用の保安設備追設といった改造はしないで、田園都市線半蔵門線のみに運用を限定し、残る8615F〜8637Fがこの長距離運用に充てられたのでした。

 これで8500系も安泰とはいきませんでした。2003年の東武伊勢崎・日光線乗り入れが始まった頃から、鉄道についてもバリアフリーが進められるようになります。この政策によって、駅の施設についてはエスカレーターやエレベーターの設置が進められ、鉄道車両についても車椅子スペースの設置や車両とホームの間の段差と隙間の縮小、さらにはホームドアの設置が進められていきました。

 車両とホームの段差と隙間は、足が不自由な人や車椅子を使う人、ベビーカーを使う人や体の小さい子どもにとって非常に危険なものです。段差が大きいと乗り降りに相当な苦労が伴い、車椅子での乗降では大型のスロープが必須になります。隙間が大きいと、体の小さい子供はそこに転落して最悪は命を落とす事故になりかねません。こうしたそれまでの「鉄道の当たり前」は、バリアフリー政策の前にあっては「当たり前ではない」とされ、鉄道事業者にはその改善が義務付けられました。

 8500系は1970年代の設計であるため、そうしたことに配慮したものではありませんでした。もっとも、段差については国鉄形車両と比べれば小さいものでしたが、それでも50mm程度の大きさがありました。実際、ベビーカーを使って利用したことがありますが、50mm程度の段差も乗降には苦労が伴い、元鉄道マンの視点からも危険があると感じたものです。

 このバリアフリーを進めるために、段差を縮小した設計をおこなった5000系(二代)を2002年から製造、田園都市線に投入されました。この5000系の新製増備と、東武非乗り入れ限定運用が減少したことにより、初期車で東武ATS非搭載車から廃車が始められました。そして2007年までに長野電鉄に譲渡された8601Fと8602Fを含めた初期製造車20編成、合計200両が廃車となっていきました。

 

8500系の後継として製造が始められた5000系も、2008年度に増備された5020Fを最後に田園都市線への投入がなくなった。様々な事情があったとされるが、5000系列は東横線の8000系を置き換える5050系の増備が優先され、その結果、田園都市線の5000系は10両編成20本、200両で打ち止めとなり、8500系の初期車を中心に200両を廃車したほかは残ることになった。その結果、2020系が登場した2018年以降も、車齢40年以上にもなる古豪8500系が活躍することになった。(5000系・5105F たまプラーザ 2018年7月26日 筆者撮影)

 

 その後は5000系の増備によって、8500系も順次廃車となり置き換えられていくものと考えられました。しかし、8621F以降についてはそのまま残存し、5000系の田園都市線での増備も止まってしまいます。

 その理由として、同じ時期に東横線の8000系と9000系の置き換えが進められたことが挙げられます。8500系よりも製造年が早かった8000系は、車齢が既に40年以上になるものもありました。また、副都心線の開業とそれに伴う東武東上線西武池袋線への乗り入れが計画されており、設計が古い8000系や副都心線の近く区間において非力さが指摘された9000系を、すべて5050系で置き換えるため、設備投資がそちらに集中したためでした。5000系の増備はここで止まり、新製増備は5050系に集中していきました。そのため、8500系は5000系とともに田園都市線で活躍を続けることになりました。

 また、5000系の増備が中止された理由として、東急が株主であった日本航空の破綻が遠因とされています。これは、かつて東急グループの一員だった日本エアシステム(その前身は透過国内航空)が日本航空経営統合したことで、日本エアシステムの大株主だった東急は、そのまま日本航空の株主として収まりますが、結局、業績が改善することなく破綻したことによって、東急は5000系の増備と8500系の置き換えを進める資金的な体力を失ったともいわれています。いずれにしても、東横線への投資が重要課題となったことで、8500系はその寿命を長らえることができたのです。

 

《次回へつづく》

 

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