《前回からのつづき》
■急行格下げで郵便荷物車との併結を可能にしたカヤ21
14系や24系といった新しい系列の客車が登場すると、20系は陳腐化が目立つようになりました。14系や24系はB寝台でも寝台幅700mmに広げられ、従来のB寝台やそのルーツとなった二等寝台と比べて僅かに余裕のあるサイズになりましたが、20系のB寝台は寝台幅50mmと狭く「蚕棚」という不名誉な渾名で呼ばれるなど、接客設備で見劣るようになってしまいました。
それまで20系で運行されていた寝台特急は、14系や24系の増備とともに置き換えられていき、かつて「走るホテル」の異名を取った20系は二線級の車両となってしまいました。その一方で旧型客車で運行されていた夜行急行列車などは、特に寝台車に10系の一員であるオハネ12などが充てられていました。しかし、10系は極端な軽量化と台車のばね係数の設定不良などもあり、車齢が若いにも関わらず老朽化が進行していました。これに加えて、10系の内装は燃焼時に有毒ガスを発生させやすい合成樹脂材を多用していたため、防火面でも不安を残していました。
こうした10系の老朽化と防火面での不安から、10系客車の寝台車を20系の格下げによる置き換えが行われていきます。これら寝台車を連結した夜行急行列車は、座席車として12系を連結していた場合は、電源を12系のスハフ12から供給ができるように改造されましたが、編成をまるごと20系に置き換えた列車の中には郵便車や荷物車を連結する必要があることや、20系に装備されていたARBE増圧装置付き電磁自動空気ブレーキを作動させ、台車の空気ばねに圧縮空気を送り込むために、牽引する機関車にはこれらの装置を作動させるための元空気溜め管を装備したP形改造を施工した車両に限定する必要がありました。
しかし急行列車に格下げされたため、牽引する機関車はP形改造施工機とは限らず、非改造の機関車が充てられることが想定されました。また、たとえP形改造施工機が牽引したとしても、機関車の次位に郵便車や荷物車が連結された場合、これらの車両に元空気溜め管の引き通しがないことから、圧縮空気を20系に送り込むことができなくなるため、編成中に圧縮空気を送り込む装備が必要になりました。
そこで、電源者のカニ21の荷物室部分に、コンプレッサー(CP)を設置して、必要な圧縮空気を編成に送り込むことにしたのです。1976年から1878年にかけてカニ21を全部で18両がこの改造を受け、荷物室がなくなったことから形式もカヤ21に改められたのです。
カヤ21は旧型客車から置き換えられた20系で組成される急行列車に連結し、寝台特急時代と変わらず、編成の一端に連結されて活躍しました。20系による特急の定期運用がすべてなくなり、急行列車として運行された列車での運用が主体になってからも、列車のテールサインを掲げた姿は、特急運用時代を彷彿させるものがあったと言えます。
やがて寝台特急の統廃合が進み、14系や24系に余剰が発生すると、残存した夜行急行列車にもこれらの車両が充てられていき、20系の多くはその役割を終えて姿を消していきました。しかし、波動用に残された車両もあり、特に1984年に幡生工場でジョイフルトレイン「ホリーデ−パル」に改造された700番代は、多客期の臨時「あさかぜ」に充てられることもあり、かつての「走るホテル」を彷彿させる運用がありました。この編成にもカヤ21が連結されていて、「ホリデーパル」が全車廃車となる1997年まで、カニ21として製造されてから40年近くの長きに渡って活躍しました。
急行「天の川」の最後尾につくカヤ21。白帯が登場時のクリーム色ではなく白1号であることから、晩年の姿だと分かる。(©spaceaero2, CC BY-SA 3.0, 出典:ウィキメディア・コモンズ)
当時としては豪華な設備を備え、軽量車体をもった20系は、1958年の製造以来その数を増やしていき、多くの長距離寝台特急列車として活躍していました。固定編成であるがゆえに運用の合理化にも貢献した一方、九州島内では基本編成と付属編成に分割して、それぞれ異なる行き先の列車として運行されるようになります。
これは、12両編成をすべて同じ行き先にするよりも、九州島内では需要に合わせた行き先にすることで、列車の運転本数を最小限にするなど合理的な運用を目指したと考えられます。しかし、20系は固定編成で、接客設備などの電源は電源者から供給する必要がありますが、この電源者は基本編成に連結されてたため、分割された付属編成には電源車がありませんでした。
そこで、旧型客車に必要最小限の電源装置を搭載して改造した簡易電源車であるマヤ20を連結して、電源の供給に充てていました。しかし、分割併合をするたびにマヤ20をいちいち解結しなければならず、運用コストもかかるなど合理的ではありませんでした。
国鉄は分割併合をする列車には、電源車に頼ることなくサービス電源を供給できる車両を開発し、運用の合理化を図ることにしました。1971年から製造された14系は、B寝台の寝台幅を従来の500mmから700mmに拡大して居住性を向上させただけでなく、サービス電源を供給するための発電セットを緩急車でもあるスハネフ14に装備して、分割併合を用意にした「分散電源方式」を採用したのでした。
14系の登場で、分割併合をする多層建て列車の運用を容易にしましたが、一方で大きな「不安」を抱えることになります。
1972年11月6日に、死者30人、負傷者714人という大惨事になった北陸トンネル列車火災事故では、事故を起こした急行「きたぐに」に連結されていた食堂車であるオシ17が火元となりました。オシ17は調理設備に石炭レンジが使われていて、車内で石炭を燃やして調理用の熱源にしていましたが、一時はこの石炭レンジが火災の原因とされたのです。(実際にはオシ17の喫煙室椅子下に設置された電気暖房の短絡によるものだった)
この事故で、車両の床下に設置されたディーゼル発電装置も火災の原因になりかねないと指摘されたため、分散電源方式を採用している14系も「危険である」ということになり、製造は一時中止されることになります。
とはいえ、20系の老朽化は進んでいたため、新たな寝台客車を製作することは国鉄にとって急務でした。1973年から基本的な設計は14系のものを踏襲しつつ、20系で採用されていた「集中電源方式」として新たに24系が製作されました。
《次回へつづく》
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