旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

EF510 300番台の増備で置き換えが確実になった九州の赤い電機の軌跡【8】

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《前回からのつづき》

 

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 1964年に東海道新幹線が開業すると、それまで東京から関西、九州方面を結んでいた特急列車や急行列車に大きな変化が訪れました。東京―大阪間の長距離列車は軒並み新幹線へ移行し、在来線の長距離列車は大阪(新大阪)―山陽各地、九州間へと変わっていきます。特に新幹線に接続する形で運行される列車が多く設定され、それまで東京駅―大阪駅間で運行されていた「こだま」に充てられていた151系電車は、大阪―九州間の列車に運用が変わります。この際に、「つばめ」「はと」博多駅まで乗り入れて運行されることになりますが、既に鹿児島本線は交流電化されていて、151系は電気方式の違いからそのまま乗り入れることはできません。とはいえ、交直流両用の特急形電車である481系はまだ開発の途上であり、すぐに営業運転に使うことができる車両はありませんでした。しかし、特急列車の乗客を下関駅でわざわざ乗り換えさせるなどもってのほかであり、よしんば乗り換えができたとしてもそれにふさわしい車両もありませんでした。 

 そこで、国鉄151系をそのまま九州内に乗り入れさせ、交流電化になっている鹿児島本線では客車のように無動力とさせ、電機に牽かせることにしました。これならば、電気方式が違っても151系に乗客を乗せたまま博多駅まで運ぶことができますが、これには一つ問題がりました。 

 その問題とは、車内の照明や冷房装置、暖房装置などに供給するサービス用電源でした。通常、電車のサービス用電源は集電装置から取り入れた電流を、電動発電機(MG)や静止形インバータ(SIV)などで必要とする電気に変換させて編成内に供給します。151系は直流電車なので、交流区間で集電装置(パンタグラフ)を上げようものなら、一発で機器は焼損、最悪の場合列車火災に発展してしまいます。 

 ふつうならば、ここで151系電車に交流関係の機器を載せるといった改造が施されますが、151系博多駅乗り入れは481系が登場するまでの「つなぎ」であり、あくまで暫定的なものであるため、多額の費用を投じて改造するのは得策ではありませんでした。そこで国鉄151系を改造することなく、交流20,000Vの電流からサービス用電源を供給できる方法を編み出しました。 

 そこで登場したのがサヤ420形と呼ばれる職用車です。サヤ420形は、既に量産が始まっていた421系のうち、中間電動車であるモハ420形のうち3両を151系へのサービス電源を供給する「電源車」として製作し、電機と151系の間に挟むようにして連結させ、集電装置から取り入れた交流20,000Vを直流1,500Vに変換し、そこから床下に設置された電動発電機(MG)を作動させて151系にサービス用電源を供給するというものでした。 この151系博多乗り入れ用に製作された電源車のサヤ420形は、その外観はモハ420形そのものでした。というのも、このような変則的な運用はあくまでも暫定措置だったため、481系が営業運転に入るとその役割もなくなるので、用途廃止後は421系の中間電動車であるモハ420形に戻ることができることを想定していました。そのため、塗装も交直流車の標準色である赤13号に塗られていたため、赤い電機と赤13号のサヤ420形、そして特急色の151系と1つの編成で3つの異なる色パターンが連なるという、あまり例の見ないものになりました。 

 

151系電車を交流電化された鹿児島本線に乗り入れるため、サービス電源を供給するための事業用車として、落成直前のモハ420形を活用したサヤ420形を製作した。151系九州乗り入れは交直両用の481系が新製投入されるまでの「つなぎ」として、期間を限定して運用するためこのような変則的な車両を充てることになった。計画通り481系が新製されると、サヤ420形は主電動機などを装備して本来のモハ420形に復元された。(©Gohachiyasu1214, CC BY-SA 4.0, 出典:Wikimedia Commons)

 

 このサヤ420形を連結して151系を牽く運用に、国鉄はED73形を充てることにしました。運用範囲が九州北部に限られ、SG非搭載であることから季節を問わず運用に変化がないことなどが理由として考えられるでしょう。この変則的な運用に充てられることになったのは、ED73形で1963年に落成した車両たちで、15号機から22号機の7両に対して151系への補助回路用の引き通し線と、サヤ420形の緊急時に集電装置を下降させる「非常パンタグラフ下げ回路」を追設し、未改造車との識別を容易にするため、改造車は前面のナンバー部分を黄色で枠が込みしました。 

 151系の博多乗り入れに対応した改造は僅かなものでしたが、1968年になると大規模な改造を受けることになります。1968年10月1日に実施されたダイヤ改正、いわゆる「ヨン・サン・トオ改正」で、国鉄は大規模なダイヤ改正を実施することにし、列車の整理と速達性の向上、すなわちスピードアップが計画され、寝台特急に使われている20系客車にはこれに対応したAREB増圧装置付き電磁自動空気ブレーキへの改造を行い、ブレーキの反応速度が向上し、最高運転速度を95km/hから110km/hへ引き上げました。 

 ところが、20系客車が装備したARBE増圧装置付き電磁自動空気ブレーキは、ブレーキの応答性を高めるために特殊な構成となりました。その名が示すように、ブレーキ全体の応答性を高めるための増圧装置と、電磁弁を作動させるための指令回路、そして圧縮空気を送り込むための元空気溜め管引き通しといった装備が必須になり、これを機関車側が対応しなければならなくなりました。 

 この20系客車のブレーキ装置の改造によって、これを牽く運用を持つ機関車には編成増圧ブレーキ装置や、電磁ブレーキ指令回路、そして元空気溜め管引き通しの追加が行われるいわゆる「P形改造」と呼ばれる改造工事が施工され、九州ではED73形がその対象になりました。 

 1968年に実施された「P形」改造によって、1〜12号機がその対象となりました。そして、改造を受けた12両はほかの電機と同様に1000番台に区分され、更に1969年には残る13〜22号機もP形改造工事を施工されて、全22両が1000番台となり、登場から6年ほどで基本番台が区分消滅するという国鉄電機の中でも稀な例になりました。 

 そして、全車が1000番台に移行したことにより、ED73形は九州北部で20系客車の寝台特急運用を独占するようになり、いわば「ブルートレイン専用機」といっても過言でない状態になります。また、20系客車とほぼ同じ仕様の10000系貨車による特急貨物列車も 

ED73形が運用に就くようになり、期せずして九州の高速列車の先頭に立ち続けたのでした。 

 また、ED72形と同様に、主変換器は新製時は風冷式イグナイトロン水銀整流器を装備していましたが、信頼性や保守運用上の困難さがついて回りました。半導体技術の発達により、大電力ダイオードが開発されると、水銀整流器をシリコン整流器に換装する工事も施工されました。 

 こうして、ED73形は軸重の重さからくる運用の制約があったものの、P形改造による1000番台になった後は、20系客車を牽く運用を一手に゙担うようになるなど、登場当初の使いづらさとは裏腹に、花形仕業をほぼ独占するという幸運に浴しました。 

 しかし、黎明期の交流機であり、製造当初はその数の少なさからくる運用の多さ、晩年は常に高速で走行する運用の多さから老朽化も進んでいました。加えて、北陸本線で活躍していたED74形やEF70形が、交直流機であるEF81形の増備と進出によって追われるように九州に転入してきたり、後継となる万能機ともいえるED76形が増備されたりして、老兵といえるED73形は姉妹機であるED72形ともども廃車が進められました。そして、北陸からやってきた電機たちに置き換わる形で、1982年までに全車が運用を離れ、廃車となり形式消滅していきました。 

 ED72形と同様に、新製から20年での廃車・形式消滅は国鉄電機としては短命な方といえるでしょう。しかし、九州における電化の推進の象徴として、その果たした役割は大きいものであり、歴史に名を刻んだといえます。 

 

《次回へつづく》

 

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