旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

EF510 300番台の増備で置き換えが確実になった九州の赤い電機の軌跡【7】

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《前回のつづきから》

 

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■姉妹機ED72形とともに電化黎明期の九州を支えたED73形 

 1961年に九州用交流電機として試作車2両が製作されたED72形は、一応の好成績を得て1962年に量産機の製造がされました。ED72形は一般形客車の牽引を前提としていたため、冬季の暖房用熱源として蒸気発生装置(SG)を搭載した客貨両用機として設計製造されました。 

 他方、貨物列車や20系客車など暖房用熱源が必要のない列車には、ED72形が装備する蒸気発生装置は必要ではなく、むしろ載せているだけの無駄なものでしかありません。製造コストもSGの分だけ高くなり、保守の面でも検修の工数が増え、運用コスト面でも不利になります。 

 そこで、ED72形が量産に移行する時期と同じくして、構造はほぼ同じでSGを非搭載であることを前提とした貨物用機として計画されたのがED73形でした。 

 ED73形は1962年から翌年にかけて、ED72形と同じく東芝で製造されました。これは、主変換器が東芝の製造する風冷式イグナイトロン水銀整流器を搭載していたためであること、国鉄が電機を発注するメーカー(日立、三菱電機・新三菱重工、川崎電機(富士電機)・川崎車輌、東洋電機・汽車製造)がほかの形式の製造で手一杯だったことなどから、同一メーカーへの集中的な発注になったと考えられます。 

 ED73形は最初から量産機が製造されました。これは前年に落成したED72形の試作機で、初期の課題などが洗い出されていたため、必要な改善の設計が済んでいたためでした。そのため、制御方式は高圧タップ切替・水銀整流器格子位相制御であることには変わらず、主変換機には風冷式イグナイトロン水銀整流器が搭載されました。 

 その一方で、ED72形試作機では駆動方式にクイル式を採用し、主電動機も512kWのMT103形が搭載されていましたが、クイル式の弱点でもあったギヤボックス内に砂埃が溜まり、その結果としてギヤの極端な摩耗の進行と噛み合い異常を起こし、異常振動を頻発させる故障が問題となり、量産機では実績と信頼性の高い吊り掛け式に戻され、主電動機も国鉄電機の標準となるMT52形に代えられました。 

 ED73形もその設計を踏襲したため、駆動方式は吊り掛け式を採用し、主電動機も当初からMT52形を搭載しました。そのため、機関車出力は1,900kWと2000kWを下回ることになりましたが、後に交流電機の標準形式と位置づけられるED75形も同じ性能であることを考慮すると、ED73形の出力はさしたる問題ではなかったと考えられたのでしょう。 

 SGを必要としない列車での運用を前提として設計されたため、当然、SGは搭載していません。そのため、ED72形ではSGの搭載スペースの関係から、全長が17,400mmとD級機としては長いものとなり、SGや燃料タンク、水タンクの重量の分だけ自重が重くなったため、軸重を分散させるために動輪軸をもたない中間台車を国鉄電機ではじめて装着しましたが、ED73形はその必要がないため、全長も14,400mmと3,000mmも短くなるとともに、中間台車も装着されませんでした。いわば、交流D級機の標準的なサイズに戻ったといえるでしょう。 

 一方で、車体のスタイルはED72形量産機とほぼ共通したものでした。前面は「く」の字型に折り曲げられた独特のスタイルで、「鳩胸」と称されるものでした。前面窓の意匠は国鉄電機の非貫通型に共通するものでしたが、「く」の字形の「鳩胸」スタイルもあって、印象が大きく変わっていました。 

 前部標識灯もシールドビーム灯2個を、前面上部の左右に振り分けられて取り付けられ、その取り付け方法も埋め込み型とされるなど、1960年代前半に設計された国鉄電機に共通するものでした。 

 側面のデザインもED72形量産機とほぼ同じものが採用され、横長のフィルター窓の上部に、同じ横方向の寸法の細長い採光用の窓を配置したもので、これも後の国鉄電機の標準スタイルとなるものでした。 

 

ED73形1000番台が現役だった頃の姿。このアングルだと、黎明期の九州交流電機の特徴であった前面の「く」の字型に折り曲げられたスタイルがよく分かる。埋込式のシールドビーム灯の前部標識灯も、1960年代前半に製造された電機に共通するものだといえる。1000番台は20系客車の牽引に必須であった機器類を追設した高速列車仕様で、0番台からの改造によって制作された。このため、全車が1000番代に改造され、0番台は区分消滅してしまうという稀な例となった。(©世田谷支局, CC BY-SA 4.0, 出典:Wikimedia Commons)

 

 このように、ED73形はED72形とほぼ「瓜二つ」に近い姉妹機で、違いはSGがないことと全長が短く、そして中間台車がないことでした。しかし、SGを省略して自重もED72方より軽くなったED73形は、軸重に関していえばED72形が16トンであったのに対して16.75トンと0.75トンも重くなり、運用範囲も軌道規格が高い九州北部に限定されることになります。このことは、後日SGを撤去して軸重が軽くなったことで九州南部にまで運用範囲を広げたED72方とは対象的で、後年まで足枷となってしまいました。 

 1962年11両、翌1963年にも11両、合わせて22両が製造されたED73形は、ED72形とともども門司機関区に配置になり、計画通りに貨物列車やSGが必要ない20系客車を牽く運用に就きました。 

 しかし、九州島内の電化が進んでいく中で、軸重が16トンを超えるED73形は鹿児島本線門司港駅熊本駅間の運用に限定され、後に長崎本線が電化されると長崎駅まで運用が広がったものの、日豊本線は線路等級が低いためにこちらへの運用には充てられず、もっぱら九州北部のSGを必要としない列車の運用に重点的に充てられました。 

 このように、軸重の重さを由来にした運用の足枷はあったものの、SGを必要としない寝台特急列車という花形の運用を手にしたもの、ED73形の特徴だったといえるでしょう。前面に、九州地域独特の中華鍋形のヘッドマークを前面に取り付け、赤い車体とは対象的な青い車体の寝台特急を牽く姿は、現在も多くの記録写真から見ることができます。 

 こうした運用に条件がつきまとうED73形ですが、落成から1〜2年しか経っていない1964年に早くも改造工事が施されることになります。 

 

《次回へつづく》

 

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