《前回のつづきから》
ED72形の主電動機は試作車では、出力512kWのMT103形を装備し、機関車出力は2050kWというD級機としては2000kW級の高出力を実現させました。そして駆動方式は、当時国鉄で電機用として積極的に採用されていたクイル式を実装し、格子位相制御との組み合わせにより高い粘着性能をもつことができました。しかし、クイル式は釣りかけ駆動と比べて軌道への影響が少なくなる反面、密閉できないギヤボックス内に砂埃が侵入し、摩耗を進行させてギヤの噛み合いを悪くして異常振動を発生させる欠点を抱えていました。そのため、3号機以降の量産車ではこうした欠点がない従来からの吊り掛け式駆動に戻され、主電動機も国鉄電機の標準形ともいえるMT52形に変わり、機関車出力も1900kWと低くなってしまいました。
ED72形は試作車と量産車を合わせて22両が製造されて門司機関区に配置になり、電化開業した鹿児島本線・門司港駅―久留米駅間で運用を開始、特に蒸気発生装置を搭載していたことから暖房車が必要な一般客車列車を中心に使用されます。また、貨物列車や蒸気発生装置を必要としない20系客車で運行されるブルートレインの運用にも入り、まさにオールラウンドプレイヤーとして活躍します。
しかし、電化が進展にするにつれて電機の運用範囲は拡大していったものの、ED72形はSG使用時の軸重が16トンという重さから、線路等級の低い路線に入ることはできず、結局は九州北部の運用に限定されるなど、必ずしも使い勝手のよい機関車ではなかったようです。
また、ブルートレインの先頭に立つという花形の仕業を一度は手にしたものの、1968年に20系客車の高速化に伴うブレーキシステムの変更により、これに対応できる特殊装備をもたない機関車はその先頭に立つことができなくなり、ED72形も20系客車対応の装備を追設する改造の対象外とされたため、花形の仕業を対応改造を施されたED73形1000番台に譲り、一般客車列車や貨物列車の牽引といった地味な役割に徹することになりました。
1970年代に入ると、ED72形は様々な改造工事を受けることになります。特に、水銀整流器は大型の真空管という構造上の問題から、振動の激しい鉄道車両には適したものでなく、安定した動作が望めない状態でした。それでも、この整流器を搭載したのは、ほかに代わるものがなかったためであり、ある意味消極的な選択だったのです。そして、その保守にも非常に苦労を強いられ、効率の良いものではありませんでした。
一方で半導体技術の進展により、安定的な動作が補償され、なおかつ取り扱いが簡便で保守の面でも有利なシリコン整流器が開発されると、ED72形もこれに交換する工事が施されました。シリコン整流器に交換後は、その性質から格子位相制御ができなくなり、動輪軸の粘着性能も低下、直流機並みになるといった欠点を抱えていましたが、水銀整流器の信頼性の低さと保守運用の非効率性を考慮すると、バーターでもシリコン整流器を搭載したほうが有利と判断されたのでした。
普通列車や急行列車の電車への移行は、ED72形にとって活躍の場を更に狭めていきます。山陽新幹線の博多開業によって夜行列車も大幅に削減され、一般形客車によって運行される列車が減るとともに、SGの操作が容易で線路等級が低い路線にも入線できるED76形の増備によって、これらの列車の仕業はED76形に集約されたために、ED72形の活躍の場はさらに減っていきます。それでも、ブルートレインの使用客車が機関車を選ばない14系や24系への置き換えによって再び花形仕業を手にすると、再びその先頭に立って最後の活躍をしました。
ED72形の運転台は非貫通構造の電機としては標準的なものだった。貫通型に比べれば枕木方向に広く取ってあるが、それでも僅かで足下は非常に窮屈である。筆者もED65形などの運転台に「座った」ことがあるが、お世辞にも作業性がよいとは言えなかった。そのため、機関士が置かれた労働環境は想像以上に過酷で、特に夏季は背後に発熱量の多い電気機器を満載した機器室もあり、狭い空間に熱がこもって暑かったと想像できる。こうした状況が改善し始めたのは人間工学を取り入れた設計となったED75形700番台やEF81形からで、機関士用に冷房装置が設置されるのは民営化後になるまで待たなければならなかった。(©tak.wing, CC BY-SA 2.0, 出典:Wikimedia Commons)
一般形客車を牽引する機会が少なくなると、ED72形が搭載していたSGを使う機会も激減していきました。1970年代中頃には、ED72形の一部でSGを撤去する工事が施工されます。これによって、機器室内を占めていたSGはなくなり、床下にあった燃料タンクと水タンクも撤去され、中間台車のまわりは空虚なスッキリとした印象に変わりました。同時にこれらの機器類がなくなった分だけ自重も軽くなり、軸重も大幅に軽減されます。その結果、SG搭載時代は軸重の制限から九州北部での運用に限定されていたのが、SG撤去後は九州南部にまで運用範囲を広げることができるようになりました。
1976年に量産車とは大きく仕様のことなる試作車の1・2号機が廃車になり、次いで1980年になると北陸本線で余剰となったEF70形とED74形が転入してきたことが決定打になって、ほとんどの車両が用途を失って運用を離脱していき、1982年までに全車が廃車となって形式消滅していきました。
ED72形が活躍したのは21年と、国鉄形電機としては比較的短命で終わったものの、1960年代から1970年代にかけてブルートレインの牽引といった花形仕業を手にし、寝台特急から貨物列車までと広範な活躍をしました。また、この時期に進展していった九州島内の交流電化の中にあって、その役割は重要な位置を占めていたといえます。また、黎明期の交流電機の一つとして、技術的な発達に姉妹機であるED73形とともに貢献したといえるでしょう。
《次回へつづく》
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