旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

もう一つの鉄道員 ~影で「安全輸送」を支えた地上勤務の鉄道員~ 第二章 見えざる「安全輸送を支える」仕事・命を預かる役目・列車見張【7】

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第二章 見えざる「安全輸送を支える」仕事・命を預かる役目・列車見張【7】

 

 私のように貨物会社で働く鉄道マン、しかも列車見張というちょっと特殊な仕事に就くと、一緒に仕事をする人は同じ会社の人とは限らない。前出の新鶴見機関区は同じ貨物会社の施設だから、そこで働く職員も貨物会社の職員となる。

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 しかし、貨物列車は必ずしも貨物駅から発着するとは限らない。列車によっては旅客駅と同じ場所に発着する場合もある。こうした駅は、分類で言えば「一般駅」と呼ばれる駅だ。そして、私が勤務した電気区では、貨物列車だけが発着する貨物駅は横浜羽沢駅*1と新興駅だけで、あとはすべて旅客駅と同じ駅であった。

 そのため、これらの駅での保守作業は、旅客会社の駅に出向いての作業となる。とうぜん、列車見張となれば、信号扱所の職員も旅客会社の所属となるのだ。

 ある日、根岸駅で信号設備の作業で信号扱所に上がると、輸送係の職員が電話を握って何やら大声で怒鳴っていた。そんなこと、これっぽっちも想像もしていなかった私は、信号扱所の扉を開いてはいると、突然の怒鳴り声に思わずビックリして体を強張らせてしまった。

 誰に、何の理由で怒鳴っているのかは分からなかったが、それにしてもあまりにも険悪な空気に、仕事ではければさっさとこの場を離れてしまいたい、そんな気分にさせられたものだ。おまけに、いくら保守作業といっても、中には通常の業務に余計な仕事を持ち込んできたと思う職員もいなくもない。だから、この電話が終わって「保守作業しに来た」なんて告げようものなら、もしかすると「なにい~!!」などと余計なとばっちりだってもらいかねないのだ。

 まあ、そうだとしても、ここから逃げ出すなんて選択肢はなかった。

 だから、作業通告書を握りしめたまま、とにかく電話が終わるのを待つしかなかった。

 ようやく輸送係の職員が電話を戻すと、私はおそるおそる信号の保守作業に来たことを告げた。そして、握っていた作業通告書を渡す。

「おっ、話は聞いているよ」

 先ほどまでの電話が嘘のように穏やかな口調になったので、少し安心したものだった。

「しかし、今日はダイヤ乱れてるよ」

「え、そうなんですか?」

 すると、輸送係の職員は少し嫌な顔をしたものだったが、すぐにハッとした顔になったのをいまでも覚えている。

「そうか、貨物さんには指令からの一斉連絡が届かないんだったよな」

 これ、実はほんとうに情けない話なのだが、旅客会社の信号通信区や電力区といった電気関係の区所には、列車の運転に何らかの障害が起きたときには、そのことを知らせるための放送装置が置かれていたようだった。もしかすると、現場と指令の間のやりとりを聞くことができる列車無線の受信機もあったかもしれない。

 それは、旅客会社の電気関係の区所は、本線も管轄しているからだった。

 ところが、貨物会社の電気区にはそんなものなかった。本線はほとんどすべてが旅客会社の管轄であり、貨物会社は貨物列車が発着する駅の必要最小限の施設と、機関区などの運転区所といった施設だけだから、そのような設備は配備されなかったのだ。

 そのため、作業に出かける前には必ず駅や機関区などに電話をかけ、運転状況などを確認してから出動することになっていた。この日も、根岸駅には事前に確認をしていたのだが、移動する途中で運転障害が起きたのだった。

「いやぁ、さっき川崎と蒲田の間の踏切で事故があって、列車止まっちゃっているんだよ」

 どうやら、この輸送係の職員が電話越しに怒鳴っていたのは、この事故が原因だったようだ。

「事故ですか」

「踏切に人が入ったらしいんだよな」

 ここまで書くと、どのような事故が起きたか想像するに難くないだろう。

 平たくいえば、人身傷害事故だ。

 なるほど、それで貨物の着発線には、タキ車*2 を従えた車扱列車がじっと待っていたのか。

EF65 1087 Negishi 20030630
根岸駅の貨物着発線で待機する、EF65PF牽引の列車。筆者が鉄道マン当時は、写真左後方の首都高速湾岸線はなかったが、この列車が牽く工業用塩輸送は健在だった。ただし、このようなコンテナ貨物ではなく、トラ車に専用の小型容器に入れての輸送で、まだまだ二軸貨車も活躍していた。(© DAJF / Wikimedia Commons, ウィキメディア・コモンズ経由で

 さて、こうなると列車の運転再開まで時間がかかるのは仕方のないことだった。

「作業、難しそうですかね」

「どこだっけ?」

 そう聞かれると、私は予定している場所を知らせた。

 この日は大船方にある転轍機付近での作業だった。

「お、それなら大丈夫だよ。ただ、乱れてるから、何が起きるか分からないよ」

「承知です」

 これだけ話を聞くと、機関区の時と同じように無線機で、現場の主任にそのことを知らせた。

 もちろん、今回はダイヤの乱れで、列車が動き出すのがいつだか分からないというオマケがついてはいたが。

 こうして作業が始まると、私はそのまま信号扱い所の中で待機をする。時折、輸送指令からの出てくる一斉伝達の情報に注意をしながら、輸送係の職員と世間話をしたものだった。なかには機関区の時と同じように顔なじみとなることもあり、何かと仕事がしやすかった。私が鉄道マンであったこの時代は、いまと違って会社が異なっても結局は同じ釜の飯を食べているような雰囲気が残っていたので、先輩方も可愛がってくれたものだった。

*1:横浜羽沢駅は貨物列車の発着だけが設定された駅で、運用上は貨物駅だが厳密には「一般駅」に分類されている。これは、1987年の分割民営化時に、駅の帰属を貨物会社だけでなく、旅客会社にも帰属させたためである。このため、旅客列車の設定がないにもかかわらず、貨物会社と旅客会社の共用駅という扱いなっていた。そのため、駅構内の線路は本線だけでなく副本線や一部の側線は旅客会社の管轄になっていた。また、信号制御を掌る継電連動装置といった信号機器も、旅客会社の資産となっているものがあった。これは将来、横浜羽沢駅に旅客列車を停車させる構想があったからだといわれているが、筆者が在籍中にはこの話は具体化したことがなかった。時を経て、2019年11月より相鉄線との直通運転が始められることにより、当駅にも旅客列車の発着が設定されたように見えるが、厳密には当駅ではなく相鉄線上にある「羽沢横浜国大駅」であり、別の駅となった。

*2:タキ車=タンク車。この頃のタンク車は、主に43t積みのタキ43000形だったが、243000番代が増備中で、日本石油所有の黒いタキ9900形やタキ35000形も数多く在籍していた。中にはタキ3000形といった古い形式の車両も混ざっていることがあり、眺めているだけでも楽しいものがあった。