旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

もう一つの鉄道員 ~影で「安全輸送」を支えた地上勤務の鉄道員~ 第二章 見えざる「安全輸送を支える」仕事・派出勤務と一本立ち【5】

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第二章 見えざる「安全輸送を支える」仕事・派出勤務と一本立ち【5】

 八王子駅や八王子機関区での作業が担務指定されると、梶ヶ谷にある派出から出動をして、ほぼ一日八王子にいることになる。当然、昼食も休憩も八王子で過ごさなければならない。昼食はいいとして、問題は休憩時間だった。

 公用車の中で休むという方法もあるが、これでは体が休まらない。春や秋ならまだいいが、夏や冬になると、車の中にいるのならばエアコンを聞かせるために、エンジンを回さなければならない。そうなると、ガソリンばかり無駄に使うことになる。

 乗務員であれば、乗務行路の行先には、必ずと言っていいほど乗務員休憩用の詰所が設けられている。同じように、施設や電気関係の区所にも、遠方になる出先には休憩用の詰所が確保してあった。こうしたあたりは、国鉄時代の習慣の名残だったかもしれない。

 横浜羽沢電気区梶ヶ谷派出の八王子での詰所は、なんと八王子機関区の機関庫建屋の中にあった。

 この話を聞いて、「ああ、あの建物か」と思われる方は、きっと古くからの愛好者の方だろう。横浜線ホームの真ん前にあった機関庫建屋のうち、もっとも道路側にあった古い機関庫建屋の中の一室が、梶ヶ谷派出の詰所だった。

 機関庫の中はとにかく広かった。建物自体も他の機関庫に比べて高さがあるので、開放感はあった。その分、庫内には運用されていないEF64、それも0番代が多くて2両が留置されているだけで、あとはとりたてて何もない殺風景なものだった。

 かつてはここで蒸気機関車や、それを置き換えたED17やEF10、EF13といった旧型電機、そしてその後を受け継いだED61やEF64たちが集い、機関区の検修に携わる鉄道マンたちによって、交番検査や段差検査が行われ賑わっていたのだろう。そんな痕跡があちこちにのこっていたが、入れば誰もいないがらんとした中に、やはりかつては機関区の検修陣が使ったであろう、広々とした畳敷きの詰所は、たった2~3名で使うにはもったいなかった。

 しかしいま思えば、なんとももったいないことをしたなぁと、悔やむばかり。

 というのも、この機関庫建屋は行くたびに、留置されている機関車が違っていた。もちろん、私が鉄道マンだった時代は、中央本線を東上してきた篠ノ井EF64[i]が中心だったが、留置線には武蔵野南線から上がってきた高崎のEF65や、八高線からやって来た同じ高崎のDD51[ii]、さらには入換用で常駐している品川のDE10[iii]などなど、バリエーションに富んでいた。

 特にEF64は山岳線用のいかついスタイルだった0番代だったし、首都圏のDD51八高線と佐倉の総武本線での運用しかなかったので、いまとなっては本当に貴重だった。

 ところが、この時代の私といえば、「趣味と実益を兼ねると長続きしない」とばかりに、鉄分の濃い趣味は一切しなかった。だから、機関庫建屋に入って、脚を休めて佇んでいるEF64を見ても、転車台の上に乗っているDD51を見ても、なんの興味を示さなかったのだ。だから、記録写真を撮るなんてことなど思いもせず、日常の仕事の中にある一風景としか見做していなかった。いま思えば本当にもったいないことをしたもので、ブログを書く度に悔やまれてならない。

 後悔、後の祭りである。

 ところで、この詰所で昼食後に休憩を取ると、夏は冷房が効いて涼しく、冬は暖房がガンガンに効いて暑いくらいだった。ところが、この暖房がくせ者で、ちょっとでも油断をして昼寝などすると、起きた途端に喉がカラッカラに渇いて仕方がない、なんてことが何度もあった。

 こういった大きな建屋の暖房は、中途半端なエアコンでは効きが悪い。そこで、昔ながらの給湯ボイラーで沸かしたお湯から出る水蒸気をつかった、いわゆる蒸気暖房が使われていた。そのため、詰所の窓下には、暖房用の蒸気が通る配管があり、大きな放熱フィンが取り付けられていた。

 この蒸気暖房、中規模以上の鉄道施設では一般的に使われているが、とにかく一度温まると効きがすごい。ちょっとでも管理の手を抜くと、たちまち部屋の中は常夏の島並に暑くなるのだ。

 かといって、休憩時間中にじっと蒸気暖房と睨めっこして、バルブを開けたり閉めたりなんてしてられない。だから、湿ったタオルを近くにおいておいたが、昼休みが終わることには乾いてしまうものだからビックリした。

 話には聞いていたが、これほどまでに蒸気暖房は暖かいが、扱が厄介だということを、身をもって知った。しかし、昔の客車列車は蒸気暖房が主流だったとすると、いったい冬の客車の車内はどんな暑さだったのか、いまでは想像することも難しい。八王子機関区の機関庫建屋が古かったおかげで、こうした貴重な経験ができたのも、今となってはいい思い出である。

 

[i] 民営化後の中央東線の貨物列車は、篠ノ井機関区所属のEF64・0番代が重連で牽いていた。もっとも南の運用は武蔵野南線新鶴見までで、東は高崎までだったと記憶している。のちに組織改正で、篠ノ井機関区は塩尻機関区篠ノ井派出となり、さらには検修の合理化施策としてEF64は全機、愛知機関区へ配転して集中配備となった。

[ii] この頃の八高線には貨物列車の設定があり、秩父セメント(現在の太平洋セメント)の包装工場が小宮駅にあり、秩父鉄道三ヶ尻駅から熊谷貨物ターミナル駅経由で、ホキ車を中心としたセメント列車が運転されていた。八高線の電化は1996年で、筆者が在職中は全線が非電化のままだった。DD51によるセメント列車は、八王子~高麗川間の電化後も続けられた。また、余談ではあるが、八高線は一部が通票閉塞を用いていたため、タブレットの授受があった。そのため、DD51を運用する高崎機関区では、将来の機関士候補生として採用した一部の高卒新採用職員を、DD51タブレット交換要員として乗務させた。機関助士の職制が廃止されて以来の、助士業務を行う職員の乗務だったが、職名は輸送係または車両係のままだった。ただし、機関車乗務には変わりないことから、彼らには機関士用の制服が貸与されていて、一見すると機関士にかくいう筆者も機関士候補生として採用されていたが、運転業務とはほど遠い仕事に就いていたので、彼らの業務が羨ましくて仕方がなかった。

[iii] 現在の品川駅港南口から東海道新幹線ホームがあるあたりに、ディーゼル機関車のみが配置された機関区があった。そのルーツは鉄道開業とともに設置された新橋機関庫で、後に貨物列車用の機関車を品川駅港南口側に移転させて品川機関庫(後に品川機関区)を開設した。同じルーツに旅客列車用機関車を配置した東京機関庫(→東京機関区)があったが、こちらは国鉄分割民営化を目前にした1985年に機関車配置がなくなり(機関車は新鶴見や田端に配置転換)、東京運転区となり民営化直前には品川運転所となって消滅したのに対し、品川機関区は貨物会社に継承されて存続した。1998年に東海道新幹線品川駅開設工事に伴い、川崎貨物駅構内に川崎機関区として移転し、現在は新鶴見機関区川崎派出として、今日もディーゼル機関車が配置されている。